デニム中毒者のたわごと

Literature

吉田知子という不思議びと その43(終章)

 

さて……庄司肇さんの『吉田知子論』も、いよいよ最後の章になりました。
題して「結びとして」です。

ぼくは長い時間をかけて吉田知子の作品を読み、気ままに考え、勝手なことを書きつづけてきた。彼女の何に魅せられたかということは、これだけ入れこんでみても、完全に分かったというわけではない。手堅く従来の小説作法にのっとった小説を書く一方で、ぼくの理解をこえる破れた作品をも書くことのできる吉田知子に、漠然と興味をひかれたのがきっかけであることは、確かに間違いないのだが、小説は必ずそういう独自の型をもたなければならないと、ぼくは考えているわけでもない。ぼくは、むしろ正攻法が好きだ。平凡なことを、正面から描いてゆくことを好む。夢とか幻想を描くのが新しい小説だと思っているわけでもない。ただ夢や幻想、異常感覚などをふくめて、また、ぼくたちが気づいていないなにか、人間にあるすべてをふくめて、文章のなかにとりこむのが、これかせの小説の道をひらくものだと、信じているだけのことである。
これまで、夢と幻想、空想とかは、承知していて見落としたか、あるいは小説の領域ではないと排除してきたものだろうから、ある意味では、作家たちは人間に正対しないで書いてきたというだけのことで、逆に言えば、小説を書くというくらいの行為のなかでさえ人間は、夢を見るというか、ある一面、ある方向にしか視線をむけたがらない生物であるというくらいのことであろう。


ほんとにここに至っても尚、変わらず偏向した持論を展開するんですね。この断言には、何の具体的根拠もありません。名だたる作家たちが、それらのことをモチーフにしてきた事実が庄司さんの持論を完全に否定していますよね。

吉田知子の仕事は、現実と夢幻とのあわいを、微妙に揺れ動きながら、飛行する方法をとっている。そのあたりの機微を勉強させてもらうために、ぼくはこの文章をつづってきた。吉田知子自身が、自分と対象とのあいだに〈私〉とでもいうべきもうひとりの私を置くことを、自分の心がけとして述べているようにぼくは読んだ。簡単なようだが、そのことを成し遂げるのは、たいへんな作業であって、このことは、本気で小説を書いているひとには、すぐに解ってもらえることだ。
もう一つの問題は、私小説のことである。カフカの「変身」でさえぼくは、一種の私小説だと思っている。結核にかかったみじめな自分こそ、巨大な甲虫になってしまったグレゴール・ザムザであり、虫の胸になげこまれる腐ったリンゴは、むしばまれた肺にあいた大きな空洞のイメージだろう。私から出発しない小説なんて意味がないし、他人に感動をよびさまさせることなど、できるはずがない。
新しい私小説を考えなければならないというのが、いまのぼくの深い思いであり、そのためには、私小説をねじ曲げて来た先輩たちの足跡を訂正し、また消去しなければならないだろう。
この文章も、あくなき私小説的私論であって、吉田知子にとっては迷惑この上もない代物かも知れないが、文章を書くということの報いは、このようなものだと承知して、苦笑しつつも見逃してくれるに違いない。つまり、これでも大いなる声援を送っているつもりなのだ。
吉田知子は平均寿命の長い女性だし、それにスポーツで肉体を鍛えているそうだから、まだまだ長生きして、これまでの何倍かの仕事をするだろうし、絶え間なく変身を繰り返すであろう。この文章は、若い時代の、ほんのひとつまみの面影をすくい取ったにすぎないと見捨てられることだろう。そうなることを、こころから期待している。
されば、まぼろしの野をゆく色浅黒き美少女よ、ひたむきに走りつづけよ。そしてやがて夢幻の大空高く羽ばたけよかし。これが感傷的な老人であるぼくの、いつわりのない今の感懐である。
(平成六年四月十七日正午擱筆)


本書はこれで終わりです。

何だかんだボクも文句を言ってきましたが、素直に庄司さんの労をねぎらいたいと思います。



   

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