デニム中毒者のたわごと

Literature

吉田知子という不思議びと その41

 
「『極楽船の人びと』をめぐって」という章です。

この作品は十章にわかれている。

1、 乗船
2、老女はなぜ船に乗ることにきめたか
3、船上の集会
4、中川かの子はなぜ母を殺したのか
5、そうか。ぼくは糞だったのか
6、愛のモチーフ 大迫ハマの場合
7、極楽船、台風圏に突入
8、死のモチーフ
9、極楽だ。極楽が見える
10、チーフの陳述


の十章である。

この作品について考える前にぼくは、別の難関にぶつからねばならなかった。読者というものは、小説のタイトルを見てから読むものなのか、また内容が自分の予想と異なっていても、そのまま平然と読みつづけられるものかという疑問である。
あとの疑問についての返答は、簡単にできるように思う。小説について感想を言うには、そこに出来上がっているものについてだけ言うしかないのであって、別の形に書くべきだったと言ったところで仕方がないということである。それ以上にかかわるのは、読者側の増上慢ではなかろうか。


んなことないと思いますが……。
熱心な読者であればあるほど、自然と期待値も高くなるはずだし、当然作者に要求する水準も高いはずです。それが道理ってもんでしょう。

しかし、『極楽船の人びと』については、作者にとってたいへんな非礼になるこの視角から口をひらくより仕方がないようなところがある。つまり題名を意識しないわけにはゆかないという初めの疑問に帰ってゆく言い訳である。〝極楽船〟という名称が、ぬきさしならないものになるということである。〝極楽船〟からぼくが思い浮かべるのは、やはり老齢、死それも安楽死、事件、抵抗或いは逆の信仰、運命といったものである。

それはあまりにも無邪気で単純な連想じゃないかなあ?

となると、小説作りの上で、人々が集まるところを船上にしたことは、適切だっただろうかという問題がすぐ頭にくる。船はやがてはどこかに到着しなければならない。そうではなく、沈没で終わるとすれば、あっけなさすぎるし、安楽死の反対と解される恐れもある。それに船は素人には操れない。船員たちはどのような人たちで、どうなるのかという問題が次にすぐ浮んでくる。

だあから、それは、あなた(=庄司さん)がタイトルだけで勝手に妄想したことに過ぎず、それを前提にして論を進めるのは、あまりに乱暴であり、筋違いだと思いますぜ。

考えてみれば、「ユエビ川」の固定されたホテル風の建物というのは、予想以上に堅実な着想であったわけだ。この作品ではチーフだけが生き残り、頑丈だった船員たちのすべて死亡させているのは、どうも素直には受容しにくい。
いや、チーフというある種のリーダーだけを生き残らせたという皮肉は、たいへん有効に働いているという説も出てくるだろう。チーフは最後の陳述では養護老人ホームの主事をしていた男で、老人たちが多くなることを予想されて、極楽船の世話係として採用されたということを述べるが、現実の行動としては、船上の集会を企画し、単に企画するだけではなく、強制的な圧力を加えてくるという、いわばファシズムと独裁者を象徴するような形で描かれている。集会がツドイと書かれ、ツドイ狩りが行われたという表現が用いられているのは、その証明だろう。そのチーフだけが助かったということは、大きくとれば、現在の世界の状況を横目に見ての、歴史への痛烈な皮肉かも知れない。
チーフの証言によれば、船はそう大きなものではなく、日本の近海を周遊するだけの目的だったというから、見せかけの極楽行を楽しむだけのもので、もともと地獄の果てまで連れていくような代物でも企画でもなかったのだろう。だとするならば、ここから余分の口出し、作者への非礼になるのだが、極楽船をぐるぐる近海で回航させた上で、東京にでも神戸にでも入港させ、夢のおわりにしてしまったほうが、面白かったのではないだろうか。上陸して面倒なことになりそうな人物、例えば母親を殺した中川かの子、安間さんを絹のしごきで絞殺してきた大迫ハマのような人物は、適当に消してしまえばいいのである。


あまりにも無責任かつ勝手な理屈ですね(笑)何言ってんでしょう?

最後のチーフの陳述で、この程度の台風では船は沈むはずはなかったということが分かるし、爆破された疑いもあることが察せられるチーフの返事になっている。爆破されたのなら、ある種の強行された詐欺事件となる道理であろうし、チーフが企画しない限りは、船員たちが一人も助からなかったというのはおかしい。
つまり、船の沈没がこの作品の掉尾としては適当ではなかったのではないかと言いたいのだが、そんな変更を空想することは、作者への越権行為であろう。


やはり何を言ってんのか、言いたいのか、さっぱり分かりません。物語の行方を想像するのは、読者として当然の行為であり、楽しみでもあるはずです。何が越権行為なもんですか!

もう一つの大きな問題は、乗船客たちをどのように描くかであろう。群衆を描くことは、小説という技法の最大の難関の一つだろう。〈乗船〉とか〈船上の集会〉という章は、その解決方法であると同時に、作品の雰囲気を凡常化させる泥沼でもある。結局は個性的な何人かを抽出して描き、その印象を百、二百といった大きさに拡散するしかないのだが、そのためには、選ばれる人々は個性的でなければならないと同時にあまりにユニイクすぎても困るのである。しかもこの場合、個性的というのは、当人の行動によって判断されるのか、内面的な思考の状態をとるのかという問題もでてくる。前者をとったほうが、読者には分かりやすいのは当然だが、作品を成立させる本質的なものは後者にある。
この作品で殺人者が何人かいたり、人殺しの話が集会や食堂で話題の中心になりがちなのは、そのためだろうし、〝そうか、ぼくは糞だったのか〟という脳腫瘍か虚血性のボケ現象かになった老人の特異な描出があるのも、そのためであろう。しかし、いずれも成功しているとは言えないような気がぼくにはする。〈愛のモチーフ〉にある本妻と情婦との確執というのは、俗っぽすぎるし、中川かの子の場合の娘と母親との美貌くらべは、すでに言ったが、吉田がくり返し描いてきた設定である。
読者というものが、一作家の作品を次々に読むことがないにしても、作者自身のなかに繰り返しへの白けたあくびがこみあげないことはないだろう。読者のこわさを作者は忘れていたとしか思えない。


これに関しては多くの作家に共通して言えることでしょうね。まだ最新作こそ未読ですが、これまでほぼ全ての作品を読んできて、近年の作品にかボクが感じている村上春樹さんが、まさしくそれに相当します(だからこそ、最新作を手許に置くことをペンディングしているんです――読んで納得したら、もちろん入手しますけどね)。






しかし七章目の〈極楽船、台風圏に突入〉から後の三章は、事情が一変する。ある人物の視点からとらえるという方法は従来通りだが、捕らえられる相手の数がむやみとふえてきて、正に群衆のなかをカメラのレンズがいろいろの方向から写し出すおもむきになってくる。台風。集団入水自殺。ツドイの不定型化と錯乱。船員たちまでが乗客とおなじ地平にまで下りてきて、船内は奇妙な修羅場となってゆく。太った船長は三日後の横浜入港を予告するのだが、その前にくる台風、それが回避できる程度のものであることも予告する。
だが、そのあとにつづく、サファリィのゲーム、銃弾のひびきの叙述は、何を意味しているのだろうか。ゲームとは、狙い撃ちにされる獲物の動物たちの呼称であるというのだから、人間も動物に違いはないというぐるぐる回りの論理と状況とを示唆したものであろうか。
七章は、六人部屋にいる男の日記という形になっている。そのことは、それまでの男または女の独白体という形よりも視野をひろげはしたが、錯乱状況を描写する下敷きともなっていて、吉田知子の異常な作劇術とでも言うべき側面を垣間見させてくれる。異才と呼ぶにふさわしい彼女の幻術には、ぼくはいささかのくやしさを交えて、脱帽するしかない。
日記は、台風にまきこまれた船内の模様を写すと同時に、ふしぎな文章を混入させてもくるのである。それは、はじめはひらがな書きのふつうの文章だが、途中からカタカナ書きに分散し、終わりにまたひらがなに戻るという体裁をとっている。

――むかし、おれが犀をやっていた頃にも三日食べないことはあったが、こんなに何十メートルもとびあがったかと思うと、ドスンとその倍も落ちるというのは初めての経験だ。

むかし犀をやっていた――というのは、どういう意味なのだろう。
ここでまた吉田知子の才能の奥行きのただならぬことに気づかされるわけだが、独白体というのは、過去に執着しがちであり、過去への執着はどうしても視野をせばめるということだ。せばめないためには、意識的に独白する主体を強力に限定化しなければならない。そのことと、台風の描写とを合体させてしまった。次の引用文に見られるような吉田知子の剛腕ぶりにおどろくのである。

――犀ダッタ日々。夜中ニ頭上ヲ啼キナガラ飛ブ鳥ガイタ。漆黒ノ闇ヲオソロシイ叫ビ声デ鋭ク切リ裂イタノダッタ。

――雨ノアト、木々ノ梢ガ光ッタ。オレハ傷ツイタ足ヲ引キズリナガラ歩イテイタ。血ガ出テイルカドウカ見ルコトハデキナカッタ。水滴デ足ガ濡レタ。

――草原ノカナタニ一本ノ木ガアル。葉モナイ節クレダッタ枯木ダ。オレハソイツガ気ニナッテナラナイ。気ニクワヌ。今日モマタオレハソイツニ向ッテ突進シテミタ。


というふうに、地の日記文のなかに、カタカナ書きの文が混淆してゆくのである。フォークナーの「野性の棕櫚」だったか、二種類の別の物語りが交互に書かれて深耕してく小説を以前に読んだことがあるが、その印象と似ているけれど、それ以上にイメージの重なり合いが密着しており、ぼくは降参した。画家が色彩を重ねて、重ねられたどの色とも全く異質の色感を醸成するのを思わせる。ポロックの絵のように、またフォンタナの切断面のように、この犀をめぐる幻想のひろがりは、ただならぬものがある。率直に言って、この七章で小説は息をふきかえした。
そしていつか犀は人間にかわり、ヒッピー風の過去を語りながら、一方では台風や水葬にされる情景を描き、また一方で犀になりきってしまったひらがなの文章に連結する。


――ムカシ、オレガ人間ヲヤッテイタ頃、オレハ女ノヨウニ髪ヲ長ク伸バシテイタモノダッタ。

――満々と水をたたえた大きな川の幻想がおれを苦しめる。おれが頭をさげてあちこちへ突進するようになったのは川を見なくなって一年目からであった。

八章〈死のモチーフ〉は、自虐的自画像かも知れない。評論集一冊、随筆二冊しか書いたことがないのに「翔んでる女」のはしりのように有名だった女の独白である。
彼女を訪ねてくる暇な文化オバサンたち、老人ホームへの批判、チーフにうながされてする〝人肉を食べた男〟の話。嵐のあとのチーフの態度から、彼がニセ医者であり、そこに入ると半年はもたない老人ホームの責任者であることが判ってくる話、チーフの死生観にかかわる演説の話、彼女が持っているドロップと、チーフの正体をあばいた末期癌らしい浅田夫人の話、ドロップ缶をあけてもらおうと船員たちを探し歩いて船底の空室で男につかまる話。


――男は私の足首を持って引き寄せながら言った。
「うまそうなばあさんじゃあ」

九章〈極楽だ。極楽が見える〉は単身赴任をしている間に妻子に心中されてしまった男の独白である。
ここでは極楽船を描く実質的な終章らしく、船内の情景がくわしく描写されてゆく。すでに乗船のときに中川かの子をわずらわせた太田老人は、香をたきしめ、両足を縛って、立派にみずから水死している。当のかの子らしい女は、色情狂のようになり、男たちに片端から自分の裸身を眺めさせ、美しいか、わたしと寝たいかと問い歩いている。かの子は母を殺し、局部をえぐり抜いて持っているらしい。一方、大迫ハマらしい女は、幻聴をおこしていて、殺した安間からの電話のベルが鳴っていると立ち上がる。人々は食べることさえ忘れてお喋りに熱中している。いろいろの性行為が行われ、男女の部屋の別もなくなってしまった。チーフは船内の首吊り自殺の話をして、後につづくものを牽制警告している。犬に噛まれる話。ドライフラワーの話。仮装舞踏会をするとチーフが叫ぶが、誰も見向きもしない。老人が興奮して走りこんでくる。陸地が見えた。助けてもらおうというのだ。対手にするものはいない。そして船長が登場し、三日後の横浜入港を予告するというわけである。
ぼくは『極楽船の人びと』はいい出来の作品ではないと言いたかったのだが、後半になってへんにのめりこんでしまった。吉田知子の魔術に見事にひっかけられてしまったらしい。まあ、それもいいとしよう。
ぼくのもくろみは、「満州は知らない」の堅実なリアリズムと、『極楽船の人びと』の非日常性とを対比させて、吉田知子自身が陥っているのではないかと思われる非現実や夢への傾斜から、それも外からの声による自縛とも思えるものから、吉田知子の視線をほんのわずかでもいいから平凡な日常へと旋回させてみたいということだったが、それは最後の『お供え』一巻を再読し終わるまでのおあずけになってしまった。


ボクがこの作品に感じたのは、ちょうど今作が書かれる少し以前に話題になった「イエスの方舟」事件でした(同様に当時世間を賑わせていた「ヤマギシ会」問題でした)。これらに関しては村上春樹さんも複数の作品でモチーフにしていたようですが(『神の子どもたちはみな踊る』『1Q84』あたりがそうですね)、最新作の『騎士団長殺し』の中でも、一種のオブセッション的な役割を担っているようですね(ただし、直截的ではないようですが……)。





吉田知子さんも作家独特のアンテナ(もしくは「性」)から、春樹さんとは別のアプローチで書かざるを得なかったんじゃないでしょうか?(もちろん、「坑道のカナリア」として、です) そんなことをボクは思います。

この章はこれで終わります。

つづきます。



   

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)