デニム中毒者のたわごと

Literature

吉田知子という不思議びと その40

 
ラストコーナーに入ったようです。
今回は「『満州は知らない』をめぐって」という章です。

この作品集には三つの小説が集められている。「帰国」「満州は知らない」「家族団欒」の三編だが、前後の二作は、ふつうの意味での短編小説であって、中にはさまった「満州は知らない」は長さと言い、骨組みと言い、中編などという半端な言い方よりも、長編と言うべき性格を持っていると言えよう。
これらの作品は、いずれも中国残留孤児の話題が中心になったものだ。しかし各々の内容も、あじわいも、恐らくは作者の思い込みによる力の入れようも、甚だしく異なった作品群である。
「帰国」は最も単純な筋立てで、言葉もよくわからない孤児の一人、いまは四十代にもなっている女が、中国の家族と離されて日本の親戚に引き取られるが、日本語を覚えることもなく、つまり親戚の人達との意志の疎通もないままに、古い井戸に落ちて死んでしまう話である。彼女を追い詰めるものに、農薬散布のヘリコプターの爆音の連想が使われているが、それが恐怖につながる具体的な体験については、推測にまかされている。
「家族団欒」は「帰国」とは逆に、日本の日常生活にどっぷりとつかりすぎた孤児の女の話である。彼女は生活のために保険勧誘員となり、性的にも乱脈となりながらたくましく生きてゆく。女についてきた中国人の夫は、孤立した日常を強いられている。子供たちは、家庭では父親の中国風に、外へでると日本の生活にうまく順応しているというか、浸蝕されながらというか、生きており、つまり一家は分裂し、拡散しながら異国である日本に同化してゆく様が描かれる。
こうした作品にくらべると、「満州は知らない」は、はるかに小説的な構築をもった作品と言えよう。この女主人公は、中国孤児として帰国し、叔母夫婦に育てられ、いまは結婚して一女をもうけている。いとこたちとのつき合いも、近所とのつき合いも、それなりの苦労はあるにしても、まずは平凡で幸な生活を享受していると言えよう。ただ彼女のなかには一点の混濁した部分があり、そのことに心を奪われつづける。自分を連れて満州から引き揚げてきた女、その女から叔母に渡されたまま、いまの生活につながってしまったものの、女との縁が断絶してしまっているのが不安である。
彼女は一枚残されている写真と、記憶にのこる女の名前とを頼りにたずねてゆく。そこにはミステリー風の味わいも加わり、引揚者たちの問題、そのひとたちも老人ホームに収容される年代になっており、老人問題などもからんできて、おぼろだった主人公の不安、或いは疑惑の根が明かされてゆく。実は、満州で、女の子のすりかえが故意に行われたらしい。彼女の中国名も、聴覚にのこされた記憶として主人公の疑念をゆすぶりつづける。終に自分はすり替えられて日本人に仕立て上げられた中国の女であり、自分のなかを流れている血も、ぬきさしならない形で中国へ傾いてゆくぬくもりを持っていることに気づいて、中国人たちがグループとなって暮らしている地区へのめりこんでゆくが、彼女の日本名を呼びながら近づいてくるものの声がひびくところで、小説は終わっている。
こうしてみると、いずれもが中国残留孤児の帰国という中心のテーマを、いろいろの視点から把握しようと試みている作者の粘り強い力量を推測できるのだが、そんな作品としてのテーマや作者の力量よりもぼくの気になるのは、これらの作品を描くために取っている吉田知子の方法意識なのである。
はっきりと言えば、幻想風、抽象小説風と見られ勝ちな吉田知子の作風が、手堅いリアリズムに根をおろしはじめたらしいことを、指摘したいのである。そのことは、一方で『極楽船の人びと』のような作品が書かれていることと対応する、或いは、対応させて考えなければならないということでもあろう。
リアリズムというのは、現実をそのままに見るということであろう。ところが、凡手の作家になるほど、現実を本当に見ていない。何を見ているのかというと、自分が頭のなかに描いているものを見るのである。そういう意味からすると、平凡なリアリズム作家のほうが、幻視者なのかも知れない。その人の視線は、自分の内側に向かってひっくり返っているのだから。次のような文章は、なかなか書けるものではない。ふつうの人間には見えないものであるが故に、自己を信じることが固い故に、こういう文章の書き手は、反日常的、非現実と評価されるのかも知れない。


――すべての戸棚の戸に青黴が浮いた。朝拭いても夕方にはまた薄青くなっている。峻三に言っても「風通しをよくすれば黴たりは千」と言うばかりだった。
戸は下の隅から黴び始める。最初は粉っぽく乾いた色になる。その白い色が次第に青みを帯び、しまいには灰色になり、黒くなる。北側の物置きの戸は墨を塗ったように黒くなった。誰かが自分に悪意を持っている。その徴候なのではないかと静香は怯える。

これは満州から他人の女に連れられて帰国し、いまは幸せそうな結婚をしている女性が、まだ日本の生活のなかで自分を日本人だと疑いもしないでいる時代を描いた「満州は知らない」の一部である。
推理小説めいた組み立てのなかで、現代の日本の老人社会への展望をも含みながら、民族或いは血の問題、母国、言葉、生活感、死の問題などを重層させてゆくこの作品は、重厚な傑作と呼んでもいいだろう。しかし吉田知子がこれを書いたということにぼくは、やはりこだわらないわけにはいかない。
そのことは、吉田知子がほぼ同じ時期に、『極楽船の人びと』のような作品を書いていることによって、逆に証明できるように思うが、どうであろうか。
一人の作家が、いろいろの型の小説を書くということは、その作家の才能としての豊饒さを示すだけのことなのだろうか。この二作を対立させることによって象徴的に浮かび上がってくる展望は、むしろ吉田知子のなかにあるおどみ、いまだにふっ切れていないもののまがまがしい存在を示唆していはしまいか。
もっと簡略に言えば、吉田知子は無理をしているのではないのだろうか。アンチ・リアリズムだとか、反日常といった他人が勝手に貼りつけたレッテルに、無理に自分を押しこもうとしているのではないだろうか。
「満州は知らない」と『日常的美青年』の作品群とは、筆つきや視角は、或いはテーマは全く異なっていても、ぼくのなかではなんの違和感もなくひとつになっている。それに反して、『極楽船の人びと』はぼくをはじき返す。その荒っぽさや、作者の熱のこもっていないような筆つきによって、読みすすめばすすむほど、白けてくるのである。
『極楽船の人びと』は、一読、如何にも吉田知子風であるところに、ますます乖離感は深まるのである。熱のこもらないという点では「飛鳥の風」も「鴻」も同じようなものかも知れないが、ここには〝日常的な文体〟に安んじているある意味での居直りがあって、安心して読んでいられるのだ。その微妙な違いをぼくの皮膚がはね返そうとするのは、単にぼくの異常体質に帰するべき問題なのだろうか。


はい、まさしくそうだと思いますよ、庄司さん。
(ただし、異常性というより、極端に偏向した嗜好性の問題になるでしょうね)

つづきます。



   

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