デニム中毒者のたわごと

Literature

吉田知子という不思議びと その39

 
今回は一呼吸置いた感のある「結びのための助走」という短い章です。

吉田知子の主要作品のいくつかについて述べ、出来れば、それらを総括できるなにかを見つけだして、この文章を終わりたいと、もうだいぶ前から考えていた。吉田知子の全部が分かってしまったということではなく、むしろ逆で、ますます分からなくなったという気持ちのほうが強い。それほど振幅の大きい作家である。解ったのは、小さなくせのようなものだけだった。
くせというのはどんなものかというと、例えば女を例にとると、横たわった女の腰骨が高くそびえているとか、両足を開くようにしてぺたんと尻を畳にくつけて座るとか、小太りしただとか、背が低い、色が黒くて目立たない、しかしよく眺めると整った目鼻立ちであるとか、体臭はないが、ときどき匂うだとか、まあ、そんなところである。
だから、ぼくの頭にうかんでいるいくつかの作品、いや、そんなことより、書名のほうを先にあげてしまおう。
『山鳴り』『極楽船の人びと』『満州は知らない』などの一つ一つについて何か言っても、仕方がないような気分にぼくはいまなっている。『お供え』が残っているが、この中の作品については、言いたいことがあるし、それが結びの言葉になりそうな予感があるので、保留しておきたい。
まず『山鳴り』を外すことにしたい。この大長編について言わないのは、一寸困るような気もするが、それは、同じことを『聖供』で言ってしまったように思うからである。「聖供」という構築の延長上に「山鳴り」はあるのではないかと思う。改めて「山鳴り」の個々の人物をとりあげても、それらの人々はかなり具体的になっているとは言えようが、行動にしても、考え方にしても、同じようなものであろう。殊に肝心の〝性〟に対するそれは、この作品以前の吉田知子の作品のなかでほぼ語りつくされてしまったような気がする。だからもし語るとすれば、もっと観念的なテーマについて、例えば性とはなにかとか、不倫の意味するものとかについて、吉田知子の本音に指を突っ込むような方法にならざるを得ないだろう。いや、そんな姑息な手段は、われわれとは言わず、少なくともぼくにとっては、何の意味もない。つっこむべき指は、吉田知子へ向けるよりは、ぼく自身のなかに突き入れるべきものであることは、断るまでもなく、それこそ本を読むということの本当の姿だろう。しかしそれは、吉田知子を離れた形の文章で追求すべきことだろう。
残る二作、『極楽船の人びと』と『満州は知らない』は、個々に述べるよりは、むしろ対比として語るほうが、意味がありそうにぼくには考えられる。

まあ、ここに至っても、変わらず自己中心的な物言いですね。

でも、残りわずかということもありますし、最後まで読み切ろうと思っています。

つづきます。



   

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