デニム中毒者のたわごと

Literature

吉田知子という不思議びと その36

 
「『蒼穹と伽藍』をめぐって」の続きです。

そして初めて物語へ入ってゆくのである。〈私〉は銀灰色の背広を着て、女のくせに男装をして、六十をすぎた女に会いに行く。その間の道や風景は、時に現実になり、時に一枚の風景画となる。〈私〉は四十くらいであり、老女は母親だと称している。しかし二人で眺める写真の中では、二つの白い肉体があえぎながらからみ合っている。
二人がかわす短い言葉のながい連鎖である会話に、どれほどの意味があるのかぼくには分からない。ただ老女が〈私〉のズボンの上に手をおいて言う次の台詞には、吉田知子に特有の隠喩がかくされているらしい。

――「ここに、こうやって……」
激しく首を左右に振りたてながら女は言った。
「葡萄の房をいれることを教えたのは、あたしだよ。まさか忘れやしまいね」


この葡萄の房の意味が、わかるような気もするのだが、ずっと確信がもてなかった。吉田知子の他の作品にも同じイメージは現れるのである。この本の作品のなかでは「鵠」に出ている。

――なぜ、葡萄は性的か。ムッシュー・ジュネのせいだと思う。そうだった。男娼が股間に葡萄の彫りものをいれて触らせるところがありました。それを読んだのは十二歳ぐらいのときで、私はそんな形のものだと思いこんだらしい。信じてくれなくても、いっこうにさしつかえはないけれども、当時、私は、それがどんな形のものか全く知らなかった。父も兄弟も、男気というものがまるでなく、機会がなかった。だから、ずうっと、そう思っていた。よく実った葡萄の房のように重くて粒々になったものだと信じこんでいた。

とある。この場合、イメージをつくってゆく強引さというか、奔放さよりも、十二歳のイメージをそのまま五十年ちかくも維持しつづけている頑固さ、自分の城を守る意志の強さとしたたかな自信をも読み取らなければならないだろう。またそのことが彼女の作品の難解な部分につながってゆくことをも読者としては、視野の内側に収めておかなければならないだろう。
〈私〉は母だという女の肉体をかかえあげ、すると女の肉はとけて流れ落ちそうになり、猛烈な腐臭を発する。それをそのまま窓の外へほうり投げると、窓は再び一枚の抽象画のようになってしまう。
この死と腐肉と臭気とのつながりも、吉田知子の作品にしばしば現れてくる図柄であって、一番素朴な形としては、随筆のなかで語られる祖母の死であろう。通夜をしていたいとこたちが、どこからかもれてきた魚屋の店先でくさった魚の内臓をかぐような臭いに辟易し、部屋から一人去り、二人去りしてしまい、吉田知子自身も逃げ出しながら、死の意味を悟るというように書かれている。この印象はかなり強烈なものだったのだろう、以来、死の場面の先触れとして、臭気のことはくりかえし彼女の作品のなかに登場させられる。
母をすてた〈私〉は娘のところにおもむき、臀の十字型の深い凹みに銀色の長いキイをさしこむ。それは儀式であると〈私〉は言う。
このあたりから先のことは、ぼくにはうまく読み取れない。性的なことなのかなとも思うが、納得できるように断片をつなぎ合わせることが出来ない。むしろ暗喩だらけと思われる文章そのものは分からなくても、その流れの全体をつらぬくものが、母から娘へ、母になった消す目からまたその娘へと渡されてゆくらしい儀式らしいものの、輪郭だけは想像することができるような気がするのである。

――「さあ、もうじき服を着られるのだから」
〈私〉がそう言うと、娘は素直に〈私〉から離れ、両足を拡げてみせるのだった。それは、美的な姿態だとは到底言えなかったが、それでも陰惨というほどではなかった。どちらにしても〈私〉には娘を覗きこんでいなければならない義務があった。


「大広間」は神様の話である。私は大広間に引き出されるが、私を迎える四人、男二人女二人の神は、いずれも珍妙な服装をし、黒い丸い臭い糞をたれ、糞粒は床一面にころがっている。その他に小人が二人おり、彼等は私に首輪、腕輪、腰輪、足輪などをはめる手伝いをする。
神たちの会話〝ハツが足りない〟ために私を広間にひっぱってきたらしいのだが、私を裸にしてペット風というか、〝責め〟の縛りのような扱いをする理由も、その果てにくるものも、ぼくにはよく分からない。
男は棘のある棒で私をめった打ちにし、別の男は膿みただれた下半身をまくりあげて陽物を私の口につっこむ。苦痛とも快美感ともつかぬものにのたうちながら私は、床にころがる小さな玉の正体を教えてくれと頼む。この文章でぼくは、すでに男女の正体がわかっているように書いているが、小説では、これらのサディスティックな行為のあとで、最後の落ちとでも言うべき言葉が吐き出されて、四人の正体が判明するように仕組まれている。次がその言葉である。


――知らなかったのか。神々は獣の糞をするということを

「踊り場」は両性具有の話である。
美少年から美青年になったぼくは、娘たちを愛することができない。男性的な体操教師になぜか反感をいだく。男みたいな、頭のわるい女の子にこがれるようになるが、彼女は交通事故で死んでしまう。異常が前奏的下敷き。
ぼくは森の中の小さな家に住むようになる。バスのなかで畸形の女に会い、関心をもつ。森の家への道は奥へつづいてゆくらしく、ある日、道を辿って古い別荘風の建物を発見する。畸形の女がそこの住人らしいことも確かめる。女の名前が〝操〟にしてあめのも意味のあることかも知れない。
ぼくと操は話を交わすが、これも両者の同一性とやがての結合を示唆するような空気に描かれる。
ある夕方、自宅の前を通った女の姿を認めてぼくは、追っ手き、背の低い彼女がすまいにしている踊り場に達する。女は乱杭歯をむきだしにして笑うが、ぼくは乳房をあらわにしてやり、下着もはぎとってやると、猛り立つものが現れる。ぼくも前をひろげて彼女と同じ乳房をだし、やがてぼくと彼女の陰陽は、互い違いに相手のなかに没して、永遠の陶酔のときを迎える。
こういう小説からぼくは、なにを読み取ればいいのだろう。畸形に対する興味、それも性的な嗜好を作者のなかに嗅ぎ取るのか、それとも単なる物語りをつくる手つきの面白さに共感するだけでいいのか、よくわからない。
森のなかの家には、お城にとじこめられたお姫様という童話の匂いさえする。好悪というもの、特に男と女との間にあるものは、いいかげんなもので、理想は理想として、手近のもので用を足してしまい、そのまま一生をおわりがちなものだ。そうした現実を吉田知子は非としているわけでもなく、この作品のなかの男女のような理想の結合をめざしているわけでもないようだ。強いてこじつけるなら、男女双方の性を味わってみたいという過剰な好奇心とでもいうべきものが、吉田とは言わず、誰にでもあるひとなのに、それこそ〝理想の恋愛〟に対するのとおなじように、いいかげんなところでごまかせない業が、吉田知子を押しやっているとでも考えるしかないであろう。

「衣裳部屋」は、美しい母親から生まれたみにくい娘の話である。
親子は二階家に住んでおり、食事は貸してあるとなりの敷地にある工場から、誰かが運んでくる仕組みになっている。
母が言い残したのは、自分が死んだらこの電話番号へ連絡しろということと、死体を白布でぐるぐる巻きにせよということだけである。ところが娘は死のなんたるかを知らず、不快な臭いによってやっと死を悟るという、吉田知子らしい設定になっている。この臭いについては先に念をおしてある。
電話でやってきたのは、老人で、彼は娘を母親と間違える。そのことから娘は自分の美しさを悟り、母の強引な隠棲は、実は自分がたぐいまれなほどの美しい赤ん坊であったためではないかと考え始める。どうやら娘は、みにくくなった母親を殺したらしい。
この話の前に、庭の風景がでてくる。腐葉がつみ重なり、その下に水をたたえた庭は、底なし沼のようになっており、ある日一匹の猫がこのなかに吸いこまれて消滅する。
この話とあとの話とがどのようにつながるのかは、分からない。すべてはメルヘン風の色彩を帯びてくること、その残酷な味わいにおいても同様である。
吉田知子はこういうお話をつくるのが好きなのだろうか。美しい母とみにくい娘の設定は、またかと思うほどそちこちの作品に現れる。美しさと自分のみにくさについて、彼女は怨念みたいなものにとりつかれているらしい。それは、先に記した手近の異性で恋愛感情の理想を麻痺させてしまう常凡さを嫌っているというよりも、逆のかたちと意味において、常凡を常凡として乗り越えてしまうことのできない吉田知子のある種の鈍重さ、つまり反復への興ざめや羞恥のないことが示すにぶさとして映る。ふつうのひとなら、怨恨とか執着というだろうもの、それがぼくには軽薄さや鈍重さとうつるのだ。どうしてこれだけの才能が、そのことに気づかないのかと、不思議に思う。


庄司さん、それはたぶん、あなたが思い違いしているからなんじゃないでしょうか。吉田さんは気づかないのではなく、端からそんなことを考えもしなかったからだと思うんです。これまでのあなたの「読み」がそうだったように。

「天蓋」の私は一匹の真っ白に肥え太った蛆虫である。
私はあまりにも限定された自己を越えようとする。痛みに耐えながら、自分を動かして小さな目的に達しようとする。しかし得られたのは、三百六十度を回転してもとの形に戻っただけのこと。上下左右十五度しかない視野のなかになにかを見つけようとする。天蓋の一部からぶら下がっている破片はガラスであると認定するが、相手との対決に私はひとり疲労困憊する。やがて私のまわりを観察者の勝手な声々がとりまく。
そして長い時間が過ぎ去ったらしい。周囲の声も消え、蛆の私は、まわりを不変の蜜と思いだしていた。
しかし、蜜は濁りはじめ、悪臭を放ちはじめ、息をしまいとしても、身体のあらゆる部分からしのびこんでくる。私は絶望のうめきをあげる。

――「ああ。そんなことが」
その一言によって天蓋がゆらめいた。それは大きく裂けた。そして、その向こうから成熟した死のような蒼穹が私の上になだれ落ちてきたのであった。


この結びは、うまい逃げ口上のようにぼくには感じられる。ああ、そんなことが、どうしたというのだろう。あり得たのだなのか、あるはずがないのだろうか。それは読者の選択というのでは、あまりにも都合がよすぎる。

そうだろうか? かねてからこの場で何度も言ってきたように、読者はどう読んでも構わないし、それで正解だと思うんです。ただし、そのことによって明らかになるのは読者の「読み」の力量であり、それは多くの読者からの論評--と、それらとの持論の比較――によって示されることになるでしょうね。現在だと各種レビーがその役割を果たしています。それでも自説に固執するなら、次から次へと異論を論破していくしかないです。違いますか?

いや、吉田知子のねらいは蛆虫の内面をたぐりよせる過程にあるので、結末などどうでもいいのだという論をなすひとがいるかも知れない。それはそれでいい。そのたくらみなら、若さが匂い立っていて、ぼくには好感がもてる。しかし、最後になって、共感のつっかえ棒を外して知らぬ顔というのでは、そりゃないでしょうと言いたくなるのだ。なだれ落ちる青い流れにむかって蛆虫は龍の如くに天へむかってかけのぼったのか、なだれ落ちる青い刃に胴体を真っ二つにされて、白い膿汁をたらしながら腐った土の下へ沈んだのか、それを言うことが若さの特権であって、日本的小説作法の常道へと韜晦するのは、どうもいただけないような気がぼくにはするのだ。
この作品のあとに続いて「泥」がくることは前に述べた。
これらの作品の生まれた順序も、また一冊にまとめるに当たって配列の工夫が行われたのかどうかも、ぼくは知りようがないが、「泥」を真ん中において、これまでの作品がどちらかというと自己中心的であったのに対して、これ以後の作品には、他者が存在しはじめ、しかもそれが一人ではなく、何人もの他者であり、その中ではさすがの私も、本音をはきだし、血まみれにならざるを得なかったのではないのか、そんな気がするのである。
それはぼくの単なる憶測であり、希望的予感であるのかも知れない。しかしぼくは吉田知子の女っぽくはない強靭さが、必ずやその方向への道を辿りはじめるだろうことを確信したいのだ。そのためには、例えば蛆虫になるよりは、裂けた蛆虫になることを余儀なくされるかも知れない。私小説風の細部をもちこまなければならないのかも知れない。しかしそれらが、単なる自己告白や自己懺悔、露悪趣味といったひよわさに終らないだろうことも、ぼくは信じ切っているのである。


庄司さんがどのように信じ切っているかがこの後語られるのでしょうか?(それとも、これまで同様にスルーしちゃうんでしょうか?)

たぶん後者になるんだろな……、とここまで読んできた感触からボクは思います。

この章、もう少しつづきます。



   

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)