デニム中毒者のたわごと

Literature

吉田知子という不思議びと その35

 
今回からしばらくは「『蒼穹と伽藍』をめぐって」という少々長い章に入ります。

この作品集は、吉田知子を知り、また論じる上で、かなり重要なというよりは、ぼくにはいまのところ、第一等の本であるような気がする。これからの彼女の活躍ぶりを予測することは、この長生き時代の長命ぶりから考えても、とても出来ないことだが、このさき彼女がどんな豹変や変幻を行っても、この作品集が引いた白線は、消えることなく、無視することも出来ないと考えられる。
作品集の内容は、極めて難解である。またどういう事情でこの作品集が書き下ろされたのかもわからない。ぼくの理解をこえる不透明な部分がそちこちにありながら、そんなことを言うのは、ぼくの直観が不透明の底におぼろな形を見せているものに惹かれ、いろいろと想像をたくましくさせられ、或いは、させられている気になり、そこに吉田知子のぬぐい去りようもない体臭のような本質とでも言うか、を感じ取っているからに外ならない。
ここに集められた作品は、吉田知子がいわば習作として書き溜めていた原稿なのではないだろうか。本にするに当たって、書き改めたり、追加や削除をされた部分があるにしても、これらの作品は、無名時代の吉田知子が、自由に自分をはばたかせながら書きすすめていた作品のような気がする。方法も素材も、比喩や形容の取り方なども、後の吉田知子の作品群を生み出す原材料、原鉱石になっているようにぼくには読みとれる。おまけに、まわりからの視線を意識しないですんだところに、放胆な設定や大きく飛翔する、或いは自由に屈曲する筋道の気ままさがにじみでているようにも、ぼくには思われる。これらは、作家にとっては最高のエッセンスであり、原稿が商品になったときから、急速に消褪してしまう色香のようなものだからだ。ぼくは嗅覚をするどくして、その発見と追跡とにこころをくだいてみたい。
まず箱の帯につけられた言葉を引用してみよう。帯のうたい文句には傑作が多いが、この本のものも、その一つであろう。


――眼も眩む無辺の蒼穹、荒野に朽ち果てた幻の伽藍にも似た、壮麗な虚無の《館》に棲息する異形の群れ。夢想と現実のはざまに、背徳と狂気、怪奇と倒錯の劇が展開する。肉体は腐蝕し、現実が剥落する、《存在》そのものの不安を、実存的感覚と詩的ディテールを駆使して鮮烈に形象化した異色野心作。未踏の文学的原野への飛翔をめざす女流の、13の連作短編による戦慄すべき夢魔の世界。凄艶、村上芳正筆になオリジナル画4葉を付す

十三編のタイトルを書き抜いてみよう。「扉」「大広間」「踊り場」「衣裳部屋」「天蓋」「泥」「しがらみ厠」「標本室」「地下室」「仏間」「厨房」「鵠」「逆旅」である。
並べてみてすぐに気のつくことは、建物の一画を指す題がほとんどを占めていることだ。当然のこと、内容は場所にまつわるものとなる。しかし、それらを一つの家の部品として、最後にくみたてて帯の文句のように〝館〟のイメージを屹立させようという意図があったのかどうかまでは、知ることができないように思う。強いて言うのなら、それらの底辺を横につなぐ〝夢魔〟というような表現に当たるかも知れない雰囲気、よどみのようなものがあることは確かだが、登場人物を共通にするとか、部屋や場所を確実につなぎ合わせるような意図的な細工は、施されていないようだ。各作品のテーマも、場所に沿うものであって、全体の構築を横目ににらんだものとは受けとれない。
そう考えてくると、明らかに家の構造から外れるものとして、「泥」「鵠」「逆旅」をあげなければならない。そして、一応の疑問符をつけたいものに巻頭の「扉」がある。扉は家の部分には違いないが、考えようによっては、外部と内部とを単にへだてるだけの一枚の仕切りにすぎない。仕切ることは重要ではあっても、扉そのものに意味があるかどうかということになると、問題であろう。
事実、本書に於いても「扉」は、へだての役目と一緒に、案内状の役割を演じているにすぎないようにも思われる。しかし逆に、案内状の一枚によって全館内を見通した気持ちになることも確かであって、その採否をわけるものはこちら側、読者としての側からの熱意の問題となろう。
もう一つの留意点は、他のすべての作品が〝ぼく〟或いは〝私〟という独白体で書かれているのに対して、「泥」一編だけは多元描写になっていることである。
「泥」はあまりにも短く、そして夢そのものが作品化されていて、内容の脈絡のなさや、連想や時間の無鉄砲な飛躍と重層とによって、全く説明することができない。主人公である彼女の視線や動きにつれてついてゆくしかない。
彼女が目覚めて玄関のガラス戸越しに前の家の庭を眺めている大勢の人々を見る。庭では黒い合羽の男たちが穴を掘っている。見物のなかにアメリカにいるはずの妹がいるので呼び入れてたずねる。大変なことが起こったと言う。腐臭がしてくる。子供の死体らしい。本田酒店が来たら大事にしてあげなくちゃ、と妹が呟く。本田酒店が来て、疲れたから蒲団をしけと言う。敷蒲団しかない。本田がねてしまう。向かいの家の主人と奥さんがくる。妹と四人で別室に入ると、もうひとり誰かがいる。誰だかわからない。主人が防臭剤をほしがる。奥さんがにおっている。夫婦には三人の子供がいる。夫が帰宅する。今度のは新式で、爆弾ではないという。植物だけを駄目にする。夫に言われ柿の木を見つめて葉裏のブツブツに気づく。ふり返ると、夫は蒲団にもぐりこんで本田と一緒になってしまっている。妹がオタカさんから電話だと言ってくる。オタカさんはざぶとんを洗いにくることになっていた。買い物をするのを彼女から買ってでる。オタカさんの亭主や事故死した息子、二人の娘たちへの連想。彼女がたのまれた買い物をしに玄関から出ようとすると、そこから大勢がのぞきこんでいる。上で音がしている。彼女は裏口からでて見上げると、黒い男たちが屋根瓦をめくっている。彼女だけ子供がない。殺してしまったからだ。屋根裏にかくしておいたのが見つかったのだ。
こういう作品の解明を行うことは、土台無理な話だろう。漱石の「夢十夜」がいい例だが、あの夢はウソの夢だ。理屈が通りすぎている。つまり、夢仕立ての物語りであって、人物や時間の設定が不合理でも、それは夢だからと言い逃れるためであって、物語りの筋そのものは一貫している。奇談、怪談のたぐいを、現実性をもたせるために夢仕立てにしたにすぎない。その意味では、現実の非日常性、不合理性にくらべても、はるかに理にかなっており、そのかないすぎているところが、却って夢物語であることを立証する仕組みになっている。
吉田知子の場合は、本当の夢だ。バラバラである。だから、したり顔の夢判断でもつけるより仕方がないだろう。アメリカにいるはずの妹がでてくるのは、はやく帰国してもらいたい意志の表れだとか、亭主と本田酒店主人が合一化してしまうのは、彼女の男性観であり、或いは夫とは容貌姿態ともに対極にいるような本田に、性的な興味をいだいているのだとか、勝手な注釈をつけてもよかろう。向かいの奥さんがキチガイであることに彼女は気づくのだが、それは頭がよくてキイキイ声で、あらゆる会の役員をやり、子供三人が優等生、背が低くてぱんぱんに肥っているのがキチガイの証拠であると言われたところで、それは夢だからというより、一面の真実を指摘しているのかも知れない。
屋根から指が雨のようにたくさん落ちてくるのは夢らしいが、それは子供の死体が屋根裏から発見されることの前兆であり、そのことは彼女に子供がないことへの自己弁護の一種であるか、反対の受胎、そして乳児願望のあらわれであるのか、好きなように解釈するしかないだろう。
問題は、本当らしく描いた夢が一般の読者には面白くもおかしくもなくて、ぼくのようなへそ曲がりの文学老年には面白いという点にあろう。芸術とはなにか、本当の小説とは、などとむつかしいことを言わないでも、ここでは若い日の吉田知子の意気込みと、性格とを読みとるだけで充分だろう。
「鵠」と「逆旅」については、順序通りあとで述べるほうが都合がよさそうだ。
ただ、このことだけは、忘れないうちに云ってこう。この作品集では、終わりの作品に近づいてゆくに従って、だんだんと、ますます私小説風になってくるということを。いや、そういう言い方はよくないのかも知れない。私小説とはどんなものを言うのか、はっきりと分かっているわけではないからだ。作者と主人公とがイコールでつながる小説と言ったところで、そんな単純な操作だけで小説を書くようなひねくれた作業ができるわけではない。小説をかいたことのない人々の、ペーパー・ドライバーがするみたいな評価の仕方であることは、みんなが知っているのに、ふしぎに誰もが黙っているだけのことだろう。
それなら、こういう言い方はどうだろう。血のつながりへの執心とそのことへの過剰な反応が多くなってくる、という言い方は。そのことは、家、その構造と存続をもふくめての建物への執心もよびさます。また、時間の流れについても、血の継承という点からの執着が濃くなると言えよう。その詳細については、作品の細部にこだわるときに、添加する形でつけ加えたいと思う。
まず「扉」である。
「扉」は吉田知子の小説作法というか、幻想的発想や連想の発生基盤を示してくれると言ったらいいのか、大雑把に言えば、吉田知子の世界へ参入するための案内書の趣きがあることは、すでに言った。彼女の思考法のメカニズムを教えてくれると同時に、一見突飛な想念が文章となってのびてゆくためには、想念の各々を結びつける接着剤のようなものがいるはずで、それは細かくは言葉のあそびや連想の作用を借りることもあるが、大きくは、その作品全体のかもしだす雰囲気のなかに、読者をひきずりこんでしまうという手もあるわけだ、というようなことまで教示してくれる。
そんな場合に、読者や批評家は、しばしばそれを作品の主題と読み誤り、或いは誤ったふりをして、幻想風とか、シュールレアリスム風とかと言って逃げてしまうのだが、なに、言葉と文章、文章と文章とをつなぐ役割りとして、接着剤の霧やパウダーを散布して、作者は韜晦してしまうこともしばしばなのである。そのいい例が次の「大広間」なのだと思うのだが、先走らずにまず「扉」から足許を固めていこう。


どうしてこうも庄司さんの文章はまどろっこしいんでしょうかね? 悪いけど、読んでいて次第にイライラしてしまいます。

「扉」は、主人公の私が、虫歯の痛みというものがよく分からないという視点から始まる。ここでは、痛みの定義、つまり一般的な定義というものと、その実態との相克が指摘されるというわけだ。一種の認識論であるとも言える。そしてそのことは〝正確さ〟ということへの不信ともなって現れ、このことは吉田知子のかたくなさを現すのか、気質ではなくて、なにごとに対しても固執する傾向を告げようとしているのか、よくわからない。恐らく両方だろう。
私の返事に対する怒りと嘲笑とをないまぜにした主治医の言葉は、平凡であるが故に却って常識的な思考法の網の目の広さと、尖鋭化してゆく主人公・私の思考との差異を示して、あざやかである。医者はたずねる。


――わたしには、あなたが何のために痛くないなどという嘘をついたのか、その理由がさっぱりわかりませんな。もしよければ、後学のために、なぜそんなことを言ったのかを教えていただきたいものですな。

それに対して私の考えることもあざやかな言葉として表現される。重要なのはしかし、痛みという言葉に対する認識ではなく、この両方を一人の吉田知子が書いているとしうことの認知であることを忘れてはならない。

――もしかすると、あれも痛みというものなのかも知れない。さまざまな種類の不快感や焦燥感を一括して痛みと称するのが通常の慣例なのかも知れぬ。それ以後、私は痛みの感覚について全く自信を失い、暑いときや痒いときにさえも、うっかり「痛い」と言ったりするようになった。

この最後のあたりなどは、横すべりしてゆく思考の、接着剤としての作用の仕方がよく観察できる文章ではないかと思う。
そこから内科的、いわば心理的な痛みと外傷性の痛みの見分けやすさの違いへと流れてゆきながら、両者は混沌として入り交じってくる。認識論から存在論への移行である。


どうにもあたくし頭が悪いのか、庄司さんの言っていることがさっぱり理解できません(みなさんは分かりますか?)。

――ここにいるのは、はたして自分なのだろうか。自分でない誰かがここに存在するのだろうか。いつも見ている夢は夢ではなくて、そちらこそが現実なのかも知れないではないか。

この夢という架空の記憶が私の内部にしのびこむ次第を述べた部分は、この『蒼穹と伽藍』の全貌を示すだけではなく、恐らく吉田知子の全作品の指標となるものであろうから、すこし長すぎるが、引用しておくことにする。頑健を誇る吉田知子は、少なくともまだ三十年は生きつづけて作品を書きつづけることだろうから、勝手な憶測は許されないことだが、すくなくとも『お供え』を出した時点までの彼女は、すべてこの一文の中に吸収することが出来そうだからである。

――まず最初に、どこかで何かが開く。膜が融けていく。簡単に言ってしまえば扉があくと形容してもいいが、やはり「あく」というよりは、「欠落していく」という感じだった。夢が私の中へ来るのではなく、私が夢の中へまぎれこむのだった。夢の中の人は私であり他人である。いったい夢の中の自分というものは、現実の自分でありながら、ふいにありありと顔が見えたりするものだ。現実世界において、鏡も硝子もないのに、自分の表情がはっきり見えるということはありえないだろう。私が見るものは前方百八十度の角度の物だけだろう。戸外なら道や木のこちら側の部分が見えるだけだ。だから私は「手垢のついた柱が私に近づき、きわどいところで巧みに身を避けた」と言うべきであって「私は柱の横をすりぬけて歩いて行った」という言い方は本来不正確である。それは私には見えないことなのだから。

この感覚はとてもよく分かります。自作でも何度かこういうことを書いた覚えもあります(自身のオブセッションのひとつであると自覚してもいますね)。吉田さんの最後のセンテンスは、語り手(及び「人称」)の問題でもありますよね。

正にジイドの言ったことと同じである。そこに小説のまやかしを持ち込まなければならないのは、当然であって、そのことを拡大すれば、次のようになることも、また当然の帰結であろう。

――そうかと言って、私がそれらの中に見たものは自分以外であるとは考えられない。私は、ある時は老人であり、別な時は石だった。それは私が平生鏡の中に見るものとは、まるで違っていたが、それでも私なのだった。要するに自分と他人の中間のもの、〈私〉とでも言おうか。

この章、面白いですね。

次回につづきます。



   

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