デニム中毒者のたわごと

Literature

吉田知子という不思議びと その34

 
「『そら』をめぐって」という章です。

「そら」については、吉田知子を論じる誰もがふれたくなるであろうと思う。
それは「そら」が傑作であるからだろうか。しかり、ある種の傑作であろうとぼくも思う。しかし、小説はこれでいいのか、という素朴な質問の側に立って考えてみると、簡単には首をたてにふるわけにはいかない。
「そら」はノサキヨネコの視線がとらえた世界である。もっと正確に言うならば、ヨネコの頭脳が受け入れ、そのなかでふくらませたり変化させたりした風景を、そのままに映しとったような文章である。
この小説は、ノサキヨネコの独白体として書かれたものではない。にもかかわらず、読んでいると、あたかもそれがヨネコの独白そのものであると錯覚してしまうほど、ヨネコの視覚と知覚、分析力、記憶、連想といった心のありようと一致してくるのである。吉田知子の筆力、表現力のすばらしさと言ってしまえばそれまでのことだが、実はそれ以上の、なにか吉田知子がヨネコに化身してしまったというようなふしぎな合一作用が働いているように思われる。吉田知子のなかに童心が残っているとか、現在の吉田知子自身の感覚や思考の上に童心と同じものが保存されているといったごまかしでは、とても説明できないようななにかがある。そして、困ったことに、その点の充実が、逆に小説の発展を阻害している。大人の平凡な眼をもった筆者が別にいれば、あっさりとウソを書くことでひろげることのできた別の世界を、ノサキヨネコに密着しすぎたために閉ざしてしまったという趣きがあるとぼくには思われる。


――ヨネコは片手で鉄棒につかまって、ずうっと歩いて行く。かたく眼をつぶって歩きながら、いち、に、さん、と数える。ゆっくり歩いたり速く歩いたりする。ながいこと、眼をつぶっていると、何かになるかも知れない、たとえば毛虫とか鳥みたいなものに。もうなったかも知れないと思って眼をあけてみる。いつも、ほんの少しだけ眼をあけるのが早すぎる。

よく引用される部分だが、ぼくは忽ち童心を呼びさまされ、昔の自分の姿が見えてしまう。ヨネコにならなければならないところで、ぼく自身になってしまう。文章のうまさ、真実さが、却って逆の効果を引きだしてしまう好例であろう。

そうだろうか? 登場人物に自分を重ねて読むことは極めて普通の感覚でしょう。それにケチをつけていたら、小説なんて読めません。

以下、「そら」のなかに出てくる風景や友人や小さな事件の数々は、なまなかの作家にはとても書くことのできない子供の世界である。ぼくは読んでいて、完全に自分の子供時代に帰ってしまった。ノサキヨネコが、大人流に言えば信仰する〝ペラジさま〟も〝コックリさん〟も、ぼくはこだわりなく受け入れてしまう。ペラジさまに供える盗んできた友人の色鉛筆もボールも、その他いろんな子供の宝物も、みんなまざまざとぼく自身の眼のなかに見ることができる。

――みんなは自分の名前を呼ばれたら返事をしますね。ノサキヨネコさんは自分の名前がわからないんだな、きっと、と先生が他の人に言う。すると皆が笑う。

そんな先生の顔も、ぼくの目の裏にうかんでくる。答えないヨネコの視線にぼくは合一する。ああ、ノサキヨネコは、ぼくだ。
ぼくは級友たちの名前を書き抜いてみた。オカベイサム(頭のうしろに小さなハゲがあって、いつもヨネコをつつく子) イノウエミツコ(優等生。コンブ飴をたべてばかりいるマモルは、ミツコの弟なのか、それとも双子なのか) 恵ちゃんは二年生だから別。タジマヨシエ(三つ編みの子。事故に会って死んだのかな) イイダミエ(ヨネコをひっぱる子) キクチマサコ(いい匂いのする先生に、いつお嫁にゆくのと聞く子。泣きべそ) ニッタヨシオ(色鉛筆もクレヨンも持っているいい家の子。ガキ大将風) ナカヤマキミコ(キミちゃんの犬は死んだ) タキグチカヨコ(木登りのうまい子。丸い石をもっている) カトウミチコ(女の子の絵をかくのが上手) ヒラタコウイチ(夏休みに海に行った子) カワイタケシ(黒ん坊のまねのうまいひょうきん者。お弁当のチクワの穴からのぞき見してみせる) ヨシノカオル(ズロースをぬらしてしまった子) ワタナベミツル君は四年生だ。
ノサキヨネコのこんなにユニイクなともだちたちに対する大人たちの姿は、なんとなくぼんやりしていて、よくわからない。横山さんというのはどんな関係の人だろう。お父さんはお金のことで失敗をしたらしいが、刑務所に行ったのかも知れない。おかあさんの生んだ子は空へ返してしまったとヒデ叔母さんは言うけれど、そのあとおかあさんまでいなくなって、ヨネコはすてられてしまったのだろうか。川村さんをヨネコの世話をするためにやとったのは、ヒデ叔母さんだろうか。とにかくそれからヨネコは〝しま〟に行くことになったらしいが、汽車で行った先が〝しま〟なのかどうか、わからない。ペラジさままでいなくなってしまった。そこには、おばあさんと士郎叔父さんがいて、ヨネコは別の小学校に通いだして、別の友達ができる。ヤマダナオ。ヤスジ。スエオ。ヤマグチヒロミ。友達たちはなんとなくさえないし、学校も小さいらしい。


――もうペラジ語は忘れてしまった。窓の向こうに蓑虫の影。すりガラスだから、影だけ。あちら側に「しま」がある。「しま」は闇の中。ヨネコはペラジさまについて思いだそうとする。知っているたくさんのことを。あんなによく知っているはずのこと。ペラジさまは真白けののっぺらぼう。ヨネコは千人の小人に千本の絹糸で引っぱられて地の底へ沈んでいく

これは「そら」の結びの文章である。大人たちの動きの世界は、おぼに推察するしかない。どんなおはなしになるのか、そんなものは問題ではないと言われれば、そうだと言うことも出来る。
要するに、ひとりぽっちになってしまったヨネコの存在感さえそこに据えてしまえば、そこに何を読みとろうが、今度は読者側の立場であるというのが、作者の主張であろうと思う。これは、次に読みたい『蒼穹と伽藍』の最初にでてくる文章「扉」を読めば、恐らくだれの眼にもはっきりとしてくるのではないかと思う。またぼくとしても、そういう小説の立場というものがあってもいいとは思っている。
しかし、「そら」のような作品を読むと、如何にも惜しいなという気がすることも、確かである。所詮、小説ではないか。身も蓋もない言い方をするならば、絵空事であり、ウソである。ウソならウソで、思い切って大ウソをついてしまうというのも、一つの考え方であろうし、作者にまで小説のなかで遊んでもらわなくても結構、素朴にウソのままを伝えてくれというのも、小説の作り方と読み方に対する一つの見解であろうと思う。そしてぼく自身は、若いころには前者のように考え、歳をとると、後者のようにいいかげんになってきたということである。
「扉」について言うときに繰り返すことになるだろうが、ジイドが言った〝去って行くひとは背中しか見えないのだ〟という意味の言葉は、正確さという点ではその通りなのだが、小説はそのままではそこでストップする理屈である。去って行った人間は、背中どころか、なにもわからなくなってしまうのだから。
しかし、去って行った人間もまた失われたはずの時間の記憶を背負って、再び物語りのなかに帰ってくるだろう。その間、失われた時間は作者に所有されているのであって、そのことがすでに作為であり、真実からは遠く、あたかも背中ではない正面からその人を眺めているような結果と効果とをもたらすに違いない。
だから「そら」について言えば、ノサキヨネコの意識ばかりにこだわりつづけたのは、小説としては失敗だったのではないかと思う。ぼくにとっては勉強になり、面白かったのだが、それは技法としての面白さであり、自分の幼時の体験を反芻できた面白さであって、小説の面白さや感動といったものとは少し違うように思われる。
小説はやはりズブの素人の評価に耐えられるものでなければいけないのではないだろうか。そこに本当の意味での小説を書くむつかしさがあるような気がする。


おやおや、前章までにご自身が言っていたことと相反するような意見が締めですか。分かるようでいて、その実よく分からない結論です。

とはいえ、この章もこれで終わりです。

つづきます。



   

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