デニム中毒者のたわごと

Literature

「カレーソーセージ」とは何ぞや?

 
昨年末の記事で予告していた中の一冊です。

語り始めると長くなりそうなので(笑)、何はともあれ「訳者あとがき」を紹介しましょう。

カレーソーセージ。ほとんどの読者には耳慣れない言葉だと思う。それがどんな食べ物なのか、本書を読まれて想像が膨らんだのではないだろうか。カレーソーセージは、ベルリン、ハンブルクなど北ドイツ地方の庶民の味の代表で、普通は道端の立ち食い屋台で買う。二百円くらいの安価な食べ物で、日本でいえばさしずめたこ焼といったところだろうか。本書にもあるとおり、吹きさらしの立ち食い屋台には上流階級の人間は寄り付かない。
そんな庶民派のカレーソーセージだが、その誕生の背後にはドラマがあった、と本書は語る。戦争と復興、嘘と真実、愛情と憎しみ――ひとりの女性の人生が凝縮され、カレーソーセージは生まれたのだ、と。人生という重いテーマと、庶民の味カレーソーセージとの滑稽なまでの不釣り合い。その意外性が本書の魅力のひとつだ。
カレーソーセージは歴史の流れの中で自然に発展してきた食べ物ではなく、ハンブルクのひとりの女性が発見したものだ。そう信じる「僕」は、発見のいきさつをきくために、いまは八十歳を越して老人ホームに暮らすその女性レーナ・ブリュッカーを訪ねる。しかしレーナは簡単に答えを明かしてはくれず、一見カレーソーセージとはなんの関係もなさそうな話を始める。

このあたり、なんとなく『ムントゥリャサ通りで』を彷彿とさせます。

それは終戦直前の一九四五年四月、敗色濃いナチス・ドイツのハンブルクに暮らしていたレーナがひとりの水兵を家にかくまうところから始まる。夫に去られ、子供も戦争や銃後の奉仕に動員されてひとり暮らしをしていた当時四十代のレーナと、二十代の水兵ヘルマン・ブレーマーとの秘密の同棲生活が始まる。それからすぐにハンブルクは降伏。けれど彼をまだ故郷の妻と子供のもとには帰したくないレーナは、戦争が終わったことを彼に隠し続ける。脱走兵は発見されれば死刑になる。そのためブレ―マーはレーナの家に隠れ続け、レーナが次々に工夫して作る代用食を食べながら、レーナの語る「戦争の進捗状況」に耳を傾け、「戦争の終わる日」を待ち続ける。どんぐりのコーヒー、にせの蟹スープ。外の世界の出来事を知る手段もなく、家に閉じこもったまま苛立つブレ―マーは、ある日自分の体の異変に気がつく……。
カレーソーセージ発見の経緯がそのまま、戦後ドイツの歴史、そしてひとりの女性の歴史に重なってくる。戦争が生んだ悲恋の物語であるにもかかわらず、本書が大げさな感傷に陥らずにすんでいるのは、淡々とした文体もさることながら、レーナという女性の無骨さとさえいえる現実的で実直な人柄に負うところが大きい。不器用だがしたたか、現実主義者だが決定的なところで情にもろく、正義感が強いが決して聖女ではない。若い女性の華やかな美しさとは違う、歳を重ねた女性の、大地に根を張ったたくましい魅力。その魅力にはカレーソーセージと相通じるものがある。どちらも普段は物語の主役として表舞台に出ることはないが、誰の目にもとまらないところでしっかりと自分の存在を確立している。
存在感あふれる脇役たちも印象深い。筋金入りの国家社会主義者ラマース、日和見主義者フレーリヒ博士、無害な隣人を装いながら裏の顔を持っていたエックレーベン夫人、ドイツの勝利を伝えるニュースの前には料理に細工をしてアナウンサーに吐き気を催させるコックのホルツィンガーなど、それぞれを主役にした小説を読んでみたいほどみな生き生きと描かれている。


ボクの初めて文芸雑誌に掲載された小説(その1その2 )に対して、とあるブログで書かれていたのが(恥ずかしながら発表された当時自分のペンネームで検索してヒットした記事でした)、「やっぱり登場人物って大事だわぁ」という文言でした。ボクはその短篇に「大発見」という青年を登場させたのですが、彼のことを指しているようでした(そしてその感想はとても嬉しくありがたいものでした)。何故なら自分で言うのもおこがましいんだけど、あの作品を誤読されている方が案外多かったように感じていたからです。ほんと、大事ですよね、作中人物って――つくづくそう思います。

(ついでに述べると、このあと触れられることになる「ギリシア神話」云々ですが、上記した拙作でも下敷きにしています)

レーナの人生に深く関わる二人の男性も見逃すわけにはいかない。女好きで遊び人、不誠実だがハンサムで粋だった夫。そしてレーナの息子であってもおかしくない年齢の脱走兵ブレ―マー。レーナがひと目で恋に落ちたブレ―マーは朴訥としており、誠実そうで、一見彼女の夫とは正反対。ふたりの出会いは運命的なものかもしれないが、関係の始まりはどこまでも現実的だ。レーナは経験を重ねた年上の女の貫禄で彼を誘惑し、一方の彼は戦場で命を落とすことを恐れ、発見されない可能性に賭けてレーナの家にとどまる。どちらにも打算があり、嘘があった。妻子の存在を隠すブレ―マーと、戦争が終わったことを隠すレーナ。ふたりの関係はどこかいびつだ。けれどそこには少なくともレーナの側の純粋な気持ちがあった。結果的には罠にはめる行為であっても、その底には一途な愛情があった。女性としての性的魅力が年齢の前に居ろせていくことを意識して、まるで最後の打ち上げ花火のような恋にのめりこむレーナ。けれど自身の嘘によって彼女は苦しむことになり、打算から無意識にせよあえて彼女の罠にはまったブレ―マーも、その優柔不断の報いとして、それまで当たり前に備わっていた大切なものを失うことになる。
この小説では、ドイツの文芸作品には珍しく、食べるという具体的、日常的な行為が主題として扱われている。レーナはブレ―マーと知り合ったとき勝負をかけてとっておきのにせの蟹スープを作り、ホルツィンガーはその天才的な料理の腕を使って孤独なレジスタンスを展開し、ブレ―マーは食べることに喜びを見出せなくなってはじめて自分の人生を見つめ直す。食べることは登場人物たちの人生にとって、単に空腹を満たす以上の大きな意味を持っている。料理の秘密は香辛料にあるとホルツィンガーは言った。味気ないソーセージの輪切りがカレーという薬味によって魔法のように別物になるように、食べることで人生がどんなふうに別のいろどりを持つのか。それも、彼らが食べるのは決して高級レストランのフルコースや山海の珍味ではなく、粗末な代用食や、安価な庶民の味であるカレーソーセージだ。戦中戦後の貧しい時代、乏しい材料からどんなふうに工夫して、少しでも栄養があり、少しでもおいしいものを作るか。料理嫌いだったレーナが料理に情熱を見出したのは、不思議にもそんなやりくりの工夫が求められる厳しい時代に入ってからだった。その工夫の才能が、のちにカレーソーセージという大胆な発想の食べ物を生み出す基盤になる。
小説の形式についても少し述べておきたい。この物語は話の聞き手である「僕」が一人称で語るという形式を取ってはいるが、老人ホームで「僕」に過去を語るブリュッカー夫人、そしてブリュッカー夫人が語る過去の物語のいわば登場人物である「レーナ・ブリュッカー」とブレ―マーもまた、ときに語り手として登場する。さっきまで現在の「ブリュッカー夫人」が語っていたかと思うと、いつの間にか語り手が過去の「レーナ・ブリュッカー」に入れ替わっている、というように。まるで映画の場面が移り変わるように、視点は現代から過去へ、一人の登場人物から別の人物へと自在に切り替わる。そして最後、ソーセージの輪切りにソースをかけるレーナ・ブリュッカーの姿が、その姿を少し離れたところから眺めるブレ―マーと、その姿を思い出の中にとどめる「僕」との視線を融合させ、過去と現在を鮮やかにつないでみせる。さらにとどめのように、物語の最後のひとことは「小説」。レーナのアパートに隠れ住んでいたブレ―マーが暇つぶしに解いたクロスワードパズルの答えのひとつが、何十年ものちに「僕」の目に飛び込んでくる。この「小説」のひとことによって、ブリュッカー夫人が語った物語と、その物語の聞き手である、つまり物語の外の存在である「僕」とがつながる。過去と現在、そして物語の中と外との不思議な融合。もちろんそれはいまにもちぎれてしまいそうな、はかない、かすかなつながりだ。「小説」という言葉が書かれた紙に破れ目が入っていたように。けれどそのかすかなつながりに導かれるようにして、このあと「僕」は本書、つまり『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』という小説を書くことになるのだろう。こうして小説中の人物である「僕」が、『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』の実際の著者であるティムともつながっていく。切なさと遊び心の生きた、ティムらしい幕切れだ。
このほかにも、この小説の最後の節は著者の遊び心に満ちている。まず、古いクロスワードパズルの切れ端に「僕」が読み取る言葉は、すべてなんらかの形でこの物語の内容につながっている。Kapriole(カプリオール)は馬術の跳躍の一種で、障害物飛越競技を学んだというブレ―マーの馬術の腕と彼の優秀乗馬者章を連想させるし、Ingwa(ショウガ)はカレーに入っている憂鬱を吹き飛ばす香辛料、Rose(バラ)は「イスタンブールのバラ」から来ている。これはファル作曲のオペレッタの名前で、カレーソーセージの発見の瞬間にレーナの頭に浮かんだエキゾティックなイメージのひとつだ。Kalypso(カリュプソ)はトロイア戦争後、故郷の妻子のもとへ帰る途上のオデュッセウスを引き止めたギリシア神話の女神の名前だ。もちろんブレ―マーを自分のアパートに引き止めたレーナ・ブリュッカーを暗示している。そしてEichkatz(リス)はレーナにカレー粉をもたらすきっかけになったキタリスの毛皮。
著者の遊び心は止まらない。さらにこれら五つの言葉の頭文字をつなぎ合わせると、KIRKE(キルケ)という言葉が浮かび上がるのだ。これはやはり故郷に帰る途上のオデュッセウスと恋に落ち、カリュプソ同様彼を自らの島に引き止めた魔女の名前だ。ちなみに、キルケは人をブタに変える魔法を使ったが、オデュッセウスにだけは魔法がきかず、ふたりは恋に落ちる。閉じ込められたアパートの中で「俺は裏切り者のブタだ」と苦くつぶやくブレ―マーは、レーナの魔力でブタに変えられてしまったのだろうか。それともレーナにとっては彼こそ魔法のきかないオデュッセウスだったのだろうか。

著者のウーヴェ・ティムは一九四〇年、物語の舞台であるハンブルクに生まれた。現在はミュンヘンに住んでいることもあわせて、作中の語り手「僕」に限りなく近いプロフィールを持つ人物だ。毛皮加工職人としての職業訓練を受けたのちに大学に入り、哲学で博士号を取るという一風変わった経歴を持つ。一九七一年のデビュー以来三十年以上、つねに現代ドイツの文学シーンの最前線で活躍してきた。一九九三年に発表された『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』は大きな話題を呼び、その後ティムといえば「ああ、あのカレーソーセージの人ね」といわれるまでになった。その後も続々と話題作を執筆、近年では二〇〇一年発表の『赤』、二〇〇三年の『僕の兄の場合』がともにベストセラーとなり、内外の高い評価を受けている。





青少年向きの作品も多数書いており、『わたしのペットは鼻づらルーディ』(一九九一年、講談社)が邦訳されている。



著者が二〇〇三年に来日したおり、たまたま東京にいた私は直接お会いする機会を得た。穏やかで気さくな話しぶりから深い教養と知性がちらりとのぞく、素敵な紳士だった。その後『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』を翻訳することになり、さまざまな疑問点を手紙にしたためミュンヘンの著者のもとへと送ったところ、的確で温かな返事をいただいた。締め切り間際になってあわてて送った更なる質問には、さっそく電話をかけて答えてくれた。そのとき前述の魔女キルケの話になり、「こっそりやった遊びなんですよ。評論家は誰も気づいてくれなかったけど」と笑っていた。もちろん一歩間違えば嫌味になりかねないこんな遊びが魅力を持つのも、市井の人々に注ぐ著者の愛情と連帯のまなざしが、作品の中に揺らぐことなくしっかりと存在しているからこそだ。

さて、カレーソーセージについてもう少しだけ。カレーソーセージ発祥の地はどこかという論争がある。私は本書を読んでからハンブルク説に転向したが、実は世間ではベルリン説が根強い。そのベルリンに何年も住んでいながら、私はまだカレーソーセージを二、三回しか食べたことがない。こちらに来てまもないころ、名物だからぜひ食べてみろと人にすすめられ、いったいどんな食べ物なんだろうと期待を膨らませた。けれど実際に食べてみたカレーソーセージは、ぶつ切りのソーセージにケチャップをぶっかけ、上からカレー粉をふりかけただけという代物で、正直かなりがっかりした。それ以来よほどのことがなければ食べない。ドイツ人たちはよくベルリン一おいしいカレーソーセージの屋台はどこかという話題で盛り上がるが、ケチャップにカレー粉をかけるだけの食べ物に一番もなにもあるものかと私は聞き流してきた。しかし本書を読んだあと、もしかして私が食べたカレーソーセージはにせものだったのではないか、どこかにブリュッカー夫人が編み出したレシピどおりの正統派祖ヘスを出す屋台があるのではないかと思いはじめた。これまでの偏見を悔い改め、ウェブサイトを検索してみた。すると驚いたことに、カレーソーセージに情熱を傾ける人たちが決して少なくないことがわかった。この庶民のファストフードの代表格に関して真剣に考察し、論述するウェブサイトの多いこと。カレーソーセージファンクラブなる団体も、ひとつやふたつではなかった。ベルリンのカレーソーセージ屋台を個別に評価したミシュランのようなものまで見つけた。やはりそれぞれの屋台にこだわりのオリジナルレシピがあるようだ。自宅からそれほど遠くないところに、このミシュランで高い評価を受けている屋台がある。たかがカレーソーセージ、されどカレーソーセージ。もういちど挑戦してみるべきだろうか。迷っているのは、失望するのが怖いからだ。ブリュッカー夫人が階段につまずいたおかげで生み出された楽園の味は、手に届かない物語として、心の中に温めておきたいような気もする。

翻訳に際しては大勢の方にお世話になった。特に、企画の段階から多くのアドバイスと励ましをくださった早稲田大学の松永美穂さん、原文の疑問点や解釈の問題に根気よく付き合ってくれたフンボルト大学日本学科の同僚ハラルド・サロモンさんと、友人のスザンネ・シュライバーさん、担当編集者として本書を愛情深く作り上げてくださった河出書房新社の木村由美子さんに心からお礼を申し上げたい。
二〇〇五年三月ベルリンにて                                    浅井晶子


ティムの未訳の作品を是非とも浅井さんの翻訳で読みたいものです。
これだけチャーミングなあとがきを書かれる方ですので。 

もちろん、浅井さん訳の他の作家たちの作品もね。











   

~ Comment ~

気になりますね。 

昨日の夕飯のメニューがカレーで
それがあまったので今朝もカレーを食べました。
だからでしょうか。。。「カレーソーセージ」・・・気になる~~~~!
究極の「カレーソーセージ」ってどんな味なんでしょうね。
本の結末のとともに惹かれるな~~。

面白い作品です。 

うめさん、おはようございます^^

>昨日の夕飯のメニューがカレーで
それがあまったので今朝もカレーを食べました。
だからでしょうか。。。「カレーソーセージ」・・・気になる~~~~!
究極の「カレーソーセージ」ってどんな味なんでしょうね。
本の結末のとともに惹かれるな~~。

是非とも読んでみてください! お勧めです♪
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