レアな村上春樹さん その142

Literature


――チャンドラーの中にも、清水俊二訳で読むと、泣かせるところ、非常にセンティメントなところがありますね。

ありますね、非常に。

――村上さんの小説の中にも、そういうところがあると思うんです


うん、僕が書くものの全部ではないけれど、あるものもありますね、結構。ただそれは僕の全てではないから、そうじゃないものも書いてるし、書きたいですね。しばらくはそういうものから逃げたいという感じが今はあります。少し乾いた方法論的なものを書きたい。『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を書いた後では、十分書いたからしばらくもういいという感じがある。もう少し短いもので、違ったことをやってみたいと思いますね。ただチャンドラーの長いものがあれだけ長く熱心に読まれるのは、人の感情にじかに訴えかけるところがあるからだと思うし、それはフィッツジェラルドにおいてもそうです。僕がこの二人から学んだことはそういうことじゃないかなと思います。感情に訴えかけられるものがなければ、人は長いものは読まないですよ。特殊な人を別にすれば、ということですけどね。

――特に長編を書く場合、読者の反応を計算して書きますか。ここにこういうことを嵌めておけばついてくるだろうといったことを。

それは考えないですね。ほんとに正直な話。というのは、長編を書く場合、自分が楽しんでないと書けないんです。自分が楽しめるもの書くわけです。だからずーっとまっすぐ進んできて、英語でred helrring といいますが、ちょっと脇にずれた、本筋とは関係ないけどおもしろいことを書かないと自分で退屈しちゃうんです。そこでちょっと寄り道する隙に先のことを考えておく。
チャンドラーはそういうのが多いですね。たとえば『長いお別れ』の中で、Bで始まる名前の医者を探しに行くところがあるでしょう。バリンジャーだったか。で三人いて本ボシは一人なんだけど関係のない二人のところに行く部分がすごくおもしろいんです。ふつうだったら関係ない二人のことはさっと片付けちゃうのをそうじゃなくて延々と書くんです。それが本筋と同じくらいすごくおもしろいんです。そういうのは小説的にすごくよくわかるし、僕は好きですね。

――メタファーの使い方で英語のものから勉強したということはありますか。

勉強したというより、身についちゃったんですね。メタファーは好きですね、大好き。

――多いですよね。

あれはゲームのようなものだから。楽しんで書いてるね。小説家にもやはり楽しみは必要なんです。書いてると疲れるから。

――メタファーの使い方に今までの日本の小説にないようなものを感じる。すごく印象的なんです。

僕はあんまり日本の小説を読んでないから知らないんだけど、そういえばメタファーは少ないのかなあ。僕は、小説というのはユーモアが非常に大きい要素だと思うし、非常に実験的なものであっても悲しいものであっても、ユーモアを忘れると小説というものはうるおいをなくしてしまうと思うんです。日本の小説にはある種のユーモアが全体的に不足しているように思いますね。たとえばね、ピンチョンなんか、あれユーモアがあるから読めるんですよ。なかったらちょっと読めないね。

――たとえば「世界の森の木が全部倒れるくらい」とか「ジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい」といったメタファーは、ふつうの日本の小説に出てこないものでしょう。

そうですか、よくわからない。ふざけ過ぎてるって、よく言われる。僕は自分で楽しんで書いているから。なんでもない文章にちょっとそういう味をつけてみる。捨ての文章にしない。捨ての文章が入ってると読むほうもだれるんです。捨ての文章でもその中に何か光ってるものを入れておけばただの捨てにはならないんです。日本の小説は、ときどき読むんだけど、捨ての文章が多すぎる。ただそこに入れているだけという意味のない文章が多すぎる。目が届いてないという感じがある。
勿論こういうメタファーは日常的なものではありません。日常的に使うことのできるメタファーではないですね。とても文章的なものです。口語的なものではないです。僕は自分の小説を映画化されるのがあまり好きじゃないんですが、その理由のひとつは小説の中の台詞を映画に使われたくないからですね。口に出されると僕の台詞ってリアルじゃないから。あれは読んでいると口語的に思えるけれど徹底的に文章的な表現なんです。文章としてはリアルです。でも実際声にすると馬鹿みたいになっちゃうんです。シナリオつくる人が全部つくり変えないと駄目なんです。小説のダイアローグと映画のダイアローグは全然別のものだから。そこまできちっとリメイクしてくれればいいんだけど、むずかしいでしょうね。
翻訳で、英語の会話を日本語の会話に訳しますよね。それなりにリアルに訳す。でもこれもそのまま喋っても日本語の会話にはならないんです。それは文章による疑似的なリアリティだから。声を出してみればわかると思うんです。多くの翻訳小説の会話というのは声に出してみると全然リアルじゃない。でもそれはそれでいいんです。文章としてリアルであれば、それでいいんです。文章の言葉というのはそういうものだし、翻訳というのもそういうものだと思う。だからそういう点を細かく取り上げてリアリティがないというのは、まったく別のものの考え方だという気がする。小説というのはおとぎ話なんだから。


つづきます。

レアな村上春樹さん その141

Literature


――日本的な風土、特に情緒的な反応をしてしまうようなところは嫌いなんですね、合わないというか。

うーん。とにかく小説に書くことにおいては合わないと思う。そういう文体では書きたくないと思う。だから、何て言うかちょうど僕が学生だった時代のいわゆる同人誌文化みたいなべとっとした重いものに対しては、生理的反発は持っていた。かなりインチキじゃないかと思ってた。ただあの時代の社会の中にそれに対抗する価値観が存在しなかったんですよ。今はたくさんあるよね。あの頃はそれがなかった。だから例えばアメリカの小説とかに頼らざるをえなかったということがある。それでなんとなくのめりこんじゃったんですね。そこに入っていくとホッとできるという部分があったから。他の国の小説だとフランスはヌーヴォー・ロマンて゜どろどろだったし、イギリスはあまりおもしろくないし、というわけでアメリカしかなかったんです。

――チャンドラーのことで言うと、これはあちこちで言われてることですが、seek and find というキーワードで示されているチャンドラーの文体、つまりプライベート・アイが何かを探してそれを見つけ出すというスタイルと物語の構造に、村上さんがかなり影響を受けたと考えていいんでしょうか。

どうなんだろう。僕が思うのは、純文学と大衆文学という色分けはとてもむずかしい問題を含んでいるし、完全に区分することはできないけれど、でもどちらかというと僕は傾向的に純文学を志向する方だと思います。でも不思議にいわゆる「大衆文学」であるチャンドラーのものにすごく影響を受けてるんです。純文学の分野ではいろんな作家が好きになった。カポーティも好きだしフィッツジェラルドも好きだし、アップダイクだって好きだったし、ヴォネガットの影響も受けてるし、アーヴィングも好きになったし、今はティム・オブライエンが大好きだし。でも心情的にはチャンドラーの文体というのがいちばん近しい存在だという気がするねぇ。何かが合うんだと思う。でも正直言って僕も未だそこまで把めてない。何がどう絡みあって作用しているのかというところまではね。あまり真剣に考えないで、ただ楽しんで読んでます。チャンドラーが僕にとって神であるとか文章の師であるとか、そういうことはないですけどね。チャンドラーの文章にもまずいところはいっぱいあるんです。ここはこう書いちゃいけないというところはいっぱいあるんだけど、不思議にそのいけないところが好きなんです。無駄だとか余分だとかいう部分が逆に好きになっちゃうんです。そういうのは小説の力だし、僕は小説の力を信じたい。理屈だとか文学的用語だとか、そういうのを抜きでね。そういうふうに思えるのはチャンドラーに対していちばん強いですね。

――それは全体にあまり関りのないような場面でのディテイルの描き方といったようなところですか。

ものの感じ方、視点の動き方といったことですね。それから文体。僕はチャンドラーのやった方法論を何とかうまくこっちの世界に移し変えたいという気持ちがすごくあるんです。方法論という点でいえば、チャンドラーはそのへんの「純文学」の作家よりずっとずっとラディカルです。

――seek and find というのは、もう少し厳密にいうとどういうことなんでしょう。

なんなんでしょうね? 僕もあまり深く考えないで言ったから。そのわりに言葉として定着しちゃった感があるけどね。ただ、ぼくの書いてるものはいつも何かを求めてる話になってる気がするんです。それで求め終わったときには、求めたものは最初と変質している、ある場合には喪われている。それはフィッツジェラルドにも言えることだし、実際チャンドラーはフィッツジェラルドのファンだったし、その辺はわりと重層的に絡み合っているんじゃないかなという気はするんだけど、それは別の人が解析することで、僕にはできないですね。


つづきます。

レアな村上春樹さん その140

Literature


――翻訳と小説の近似性ということに関連してもう一つ。小説を書くときにまず英語で表現が出てきて、それを日本語に訳すようなかたちで小説の中に埋めこんでいく、ということはないですか。

それはないです。
ただ、翻訳と小説の近似性ということで僕がいつも感じるのは、あっちの世界の物事をこっちの世界に移し変えるのが、僕の考えでいうと文章を書くということなので、それは翻訳でも小説でもそうなんです。翻訳の場合はテキストがあってそれをこっちの言葉に置き換えるわけですね。小説の場合は、そうじゃなくて、一種の違うフェイズのなかにある、自分のものの感じ方、考え方というのがあって、それは非常に何て言うか、現実的ではない、具体的ではないわけです。それを文章のかたちにする、つまりこっちの世界に移し変えるというのは、トランスレートするということなんですね。そういう意味で翻訳と小説は原理的に同じ作業であるわけです。だから僕はそういうふうに感じているから、翻訳というものに対して、小説を書くのと同じような意識で入っていけるんじゃないかなというふうには思う。

――どうしてさっきの質問をしたかといいますと、二月号の『文学界』の『ダンス・ダンス・ダンス』の鼎談書評で、池内紀さんが村上さんは「頭の中が英語の人だ」ということを言っていて面白い指摘だと思ったからなんです。思考の構造が英語的になっているということはないですか。

それはないですね。自分ではまったく日本語的な考え方しかできないと思う。確かに最初に『風の歌を聴け』を書いたときは、初めに英語で書いてそれを翻訳して日本語に変えて書きました。それはでも頭が英語的に出来ているからではなんて、日本語的な過剰なセンティメントを排除しようと思うからそうしただけなんです。そうしないことには、日本語というものにはいろんなものが染みついているから――たとえば自分がこれまで生きてきた生活感覚のようなものとかが――それを何とか排除したかったということなんです。むしろ逆に、僕の頭は過度に日本語的だったということになると思う。翻訳というのは、英語的なものの考え方と文の構造を日本語的な感じ方、文の構造に移し変えるということですね、これは頭が日本語的構造になってなければできないですよ。僕の頭の構造が日本語のネイティヴだから翻訳ができるわけです。でもね、頭が日本語だとか外国語だとかね、そんなふうに物事は簡単にはわりきれないんじゃないかな。我々はそういう単純な立場から小説は書いてないですよ。常にいろんな方向から自らの立場を検証している。翻訳というのは、僕にとってはそういう検証作業のひとつなわけです。

――原書は昔からよく読んでこられたんでしょう。

そうですね、英語読むのが好きだったんですよ。何で好きだったのかわからないけれど、新しいものというかおもちゃと同じなんですね、十七、十八の頃には。おもしろくてしょうがなかった。で、読んでいるうちにだんだん読めるようになってきたし。謙遜するわけじゃなくて、学校の英語の成績はよくなかった。文法なんか大嫌いだった。けど、本は読めた。理屈抜きでゴリゴリ読むのは好きだったんです。そういうエネルギーというのはあるな。日本語に翻訳されてなくてえいごでしか読めないという作品もいっぱいあったし、そういうのが読めるというのはすごい喜びだったですね。まず喜びありき、ですよね。
アメリカ自体が好きだったということではないんです。そんなに気にならなかったし、憧れもなかった
。ただ音楽は好きだったから、アメリカのロックン・ロールは聞いていた。その程度のことですね。

――英語を読むのが好きだということとアメリカ自体にそれ程興味がないということとは、どういうふうに考えればいいのでしょう。

一種のファンタジーみたいなものとして受け容れてたんですね。アメリカの小説とか社会とかカルチャーといったものを。実物にはあまり興味なかった。だから僕はチャンドラーの気持ちが非常によくわかる。
あの人はイギリスでまったくふつうに育った人で、後にアメリカに渡るんですね。だから、ウエスト・コーストのああいうハードボイルド的土壌は後天的に入ってるわけです。アメリカはチャンドラーにとってはファンタジーであるわけです。ハメットは自分でピンカートンにいて探偵やってたのが、書くようになるんですが、チャンドラーの場合は、スラングにしても一つ一つ学んで書くわけです。マーロウの世界というのは、そういう意味でファンタジーなんです。チャンドラーがそういう世界に憧れていたかどうかは別の問題で、憧れる必要はとくにない。それを一種の別の世界として受け容れれば、彼にとっては非常におもしろいわけです。そういうことだと思うんです。だからたとえばフィリップ・マーロウの世界、あれをリアルなものとして受けとめたらそれは馬鹿馬鹿しいですよ。あれはファンタジーだし、もしそれが人をリアルにひきつけるとしたら、それはファンタジーの力なんです。だから僕にとってのアメリカの小説というのもそれに近いものだと思います。つまりあっちの世界があることによって、それを引きよせることによって、こっちの世界を相対化できるということがあるわけです。それは僕にとっての装置のようなものなんです。小説家にはそれぞれの独自の装置がある。僕にとってのある種の「外国性」というのは、僕という一人の人間の存在を相対化するための装置なんです。情緒のニュートラライズというかね。


つづきます。

レアな村上春樹さん その139

Literature


――スタイルの訓練というのは、毎日ある程度の量の英文を読み、訳すというやり方ですか。

いや、そうじゃなくて、ソースがオリジナルであるにせよ翻訳であるにせよ、自分で文章をつくって書いていくという訓練が必要なんですよ。それは音楽家が楽器の練習をするのと同じことで、毎日少しでもするようにしているんです。
小説の場合は、毎日書くというのは難しいですが、翻訳というのはある程度テクニカルな作業だから、一日毎にここからここまで訳そうと決めて続けていくのはそれ程難しいことではないですよ。

――以前、本誌の中田耕治さんとの対談で(一九八五年五月号)、最初に翻訳された「マイ・ロスト・シティー」について、あれは自分に引きつけ過ぎちゃった、その後もっと作品の流れに沿って訳していけるようになっていると発言されてるんですが、自分に引きつけるということとテクストの流れに乗るということをもう少し説明していただけませんか。

これは翻訳に限らず、文章を書くときというのは誰でもそうだと思うんだけれども、自分が何かを書こうという意識が強すぎると自然な流れは損なわれますよね。フィッツジェラルドを訳したとき、僕は翻訳するのは初めてだったし、僕のオリジナリティというか個性を出そうという気があったんです。だけど、訳した後で、そういうものは必要ないんだということがわかったんです。ごく普通に翻訳すれば、オリジナリティを消そうと思っても出るべきものは出るし、一所懸命やっても出ないものは出ない。それがわかったから、その後たとえばカーヴァーなんかはなるべく自分が引いて、文章に沿って、読みやすくわかりやすく訳そうと、それだけ考えてやっているんだけど、訳し終えると、やっぱり自分の癖というか個性というものは出ちゃうんですよ。
なかなか翻訳というのは難しくて、コツは把めないものだけれど、僕なりの基本線は少しずつ出ていると思う。

――現在では、翻訳において原作との距離のとり方がかなりはっきり把めているということですね。

僕自身のポリシーは、もちろんはっきりあります。技術的な面に関しては僕は元々がまったくの素人なんで少しずつギャップを埋めてる段階ではあるけれど、僕なりの翻訳に対するポリシーというものはもちろんあります。

――そのポリシーは、今の話から考えると透明になろうということですか。

透明になろうとは思わない。ただ、テキストの流れを損なわないように、それに身を任せていこうということですね。“flow”というか流れとともに行くという感じ。文章の呼吸を把んでリズムを把むことがいちばん大事だと思うんです。ただ、うまく把呼吸が把めないテキストというのがあって、そういうものはとても苦労しますね。僕はやっぱり自分と流れの合う作家のものしか翻訳できない。だから一所懸命読んで、これはできる、これはできないと自分で決めています。他人が持ちこんできたものというのは、だいたい駄目ですね。自分が発見したものじゃないと駄目みたいです。

――個性が自ら出てしまうということなんですが、僕の感じでいうと村上さんの翻訳は相当個性的だと思うんです。その印象は、たとえば村上さんの小説の文章と翻訳の文章との近似性を強く感じるところからきていて、悪い言い方かもしれませんが、文体が似ているんです。

似てるんでしょうね。それはよく言われる。僕の小説の文体は僕の訳す小説の文体と似ているというふうに言う人もいるし、僕の翻訳の文体は僕の小説の文体に似すぎていると言う人もいる。でもそれはしょうがないことですよ。というのは、文体というのは人の身体の一部であって、変えようと思って変えられるものではないし、無理に変えようとすれば不自然になる。それに、正確な翻訳というのは原理的にありえないから、少しでもリズムのあるテクストであればそれに似たリズムを作り出して、わかりやすく訳さなければ翻訳にならないと僕は思う。ある程度色づけが変るのはしょうがないですね。ただ僕自身は、色づけをしようと思ってやっているのではなくて、さっきも言ったように、色づけをなるべく排除していこうと思ってやっている。だけど、思えば思う程どうしようもなくなっちゃうといういうことだってあるわけです。

――訳語を決める場合、文脈に応じてさまざまな可能性があるわけですが、村上さんが訳語を選ぶ場合、よりニュートラルな表現、過剰な匂いのしないような表現を選んでいるんじゃないかと想像するんですが。


それはケース・バイ・ケースですね。なるべくそういう言葉を選びたいという気持ちはあるかもしれないけれど、引っくり返してまったく違うものをもってくる場合もあることはあります。
ただ、そうだな、僕の場合は、あんまり細かい、一つ一つの言葉の把み方よりは、全体的なリズムというか文章のバランスでもってものを考える傾向があると思います。だから、一つ一つの単語の訳がニュートラルなものに行きがちだという指摘は、そうかもしれないと思う。一つ一つの言葉に拘泥するということはあまりないね。

――それは意識してではなく自然にそうなるということですね。

そうですね。癖というか勘としいうか。自然にそうなるんでしょうね。空気をつかむというのがいちばん基本ですね。言葉はそのあとだな。あまり言葉自体にこだわると自然さが失われるから。


とてもエキサイティングなインタビューですね。わくわくします。
つづきます。

レアな村上春樹さん その138

Literature


僕が翻訳をはじめる場所

――小説家で翻訳もするという例は,他の小説家にもありますが、村上さんの場合はまず量的に突出している、異常と言ってもいいぐらい多いと思うんです。その量の多さは、村上さんの中で翻訳が尋常でない大きな場所を占めていることを物語っていて、小説家の中にあって特殊というか、非常にユニークな特徴を示していますし翻訳が作家村上春樹とも質的に深く関わりあっているのではないかと想像するわけです。そのことを中心に、技術的な面も含めてお話しを伺いたいと思います。

翻訳に関しては、僕は本職で派内から、静かにこそっとやっていたいというのが本音ですね。だからはっきり言って、こういう特集されるというのは、僕にとってはあまり好ましいことではないですね。できればやってほしくない。僕は小説が本職であって、翻訳は他人のテリトリーに入ってやっていることだからね。そのことを、イクスキューズとして最初に言っておきたいんです。こういうかたちでとりあげられるのは僕の本意ではない、と。本当はとりあげるなら「小説家と翻訳」とかいうようなもっと広い形でとりあげてほしかった。僕個人として取りあげるのはちょっと変じゃないかと思うね。でもそんなこと言ってもどうらやるんだろうから、一応僕も僕の立場を説明しておきたいと思って、このインタビューを引きうけたわけです。このことはちゃんと書いといて下さい。
僕の翻訳が多いということも、今の時点で、他の人と比べて言えることであって、以前にはたとえば丸谷(才一)さんがずいぶん翻訳してらっしゃいますよ。

――ただ、丸谷さんもそうですけれど、ある時期で止めている。村上さんの場合も、もちろん長いスパンで見ればわからないことですけれど、創作と同じぐらいの量の翻訳をやるというのは珍しいケースですよ。

逆に言えば、もともとは翻訳プロパーから出て小説を書いている人もいらっしゃるわけですね。たとえば常盤(新平)さんとか池澤(夏樹)さんとか。そういうクロスオーバーの具合を追及していけば、もう少し視界は拡がるんじゃないかという気がしますけどね。どうして「村上春樹」かというのが、よく見えないな。

――それは、村上さんの翻訳が量的に突出していて、その事実の中に村上さんを解く鍵があるのではないかと思っていること、もう一つは、村上さんとは関りのないところで、〝村上現象〟が起きていて、その傾向は翻訳出版界にも見られるからです。それで、今回は村上さんだけに絞ってやることにしました。で、そのクロスオーバーの具合なんですが、先ほど翻訳と小説とは自分にとって違うものであるというふうに言われましたが、たとえば、これは技術的なことですが、翻訳が小説を書く場合の表現の訓練の場として捉えられているといったことはないですか。

これは他のところでも以前に言ったことがありますが、僕にとっての翻訳の意味というのは、先ず第一に小説を書かないときの仕事ということです。しょっちゅう小説を書いているわけじゃない――というか。書いてない時の方が多いんです。小説家が小説を書く以外にやることっていうとエッセイとか、その他に講演や対談とかがありますよね。僕の場合は、人前に出るのが好きじゃないんで講演や対談というのはまずやらないし、エッセイもあまり好きではない。いささかナマすぎるから。だからどうしても翻訳にいっちゃうんですね。もともと好きだし。作業として性格に向いてるし。次に小説を書かないときのトレーニングのための作業だということがあって、まあ文体を磨く訓練としてやっているわけですね。ものを書く力というのは、毎日少しずつやっていないと確実に落ちていくから、そういう面では翻訳は非常にいい訓練になる。手仕事ですから。三つ目には、非常にいい小説を読んでいると、それを少しでも紹介したいという気になる。そして、他の翻訳家の方がやられるのであれば僕が訳すことはないんだけれど、いろんな事情で、何から何まで訳されるという状況ではないわけです。だから、僕が小説家という肩書を利用して、という言い方はよくないけれど、まあある程度のわがままのきく部分はないでもない。だからそれを生かして少しでも良い小説を読者に紹介したいということ。この三つですよ、非常にきっちりと言えば。


つづきます。

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Author:T.S コウ
コウです。プロフィールの画像が詐欺ではないかとの噂がありますが(笑)、ン十年前はこんなでしたってば! と言い張っちゃう^^
せっかく、このブログにいらっしゃったのですから、どうぞごゆるりとお過ごしください^^

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