レイモンド・カーヴァーに学ぶ その27

Literature


四年前にレイモンド・カーヴァーの評伝『レイモンド・カーヴァー 作家としての人生』が翻訳出版されました。2009年にはニューヨークタイムズ紙の「10 Best Books」にも選出されたカーヴァーの決定版とも呼べる評伝です。



評伝ですので、カーヴァーのヴォイスはありません(従って本書の翻訳は村上春樹さんではなく、星野真里さん――※ 女優さんではないです――がされています)。

とにかく分厚い本でして(何せ本文だけで736ページあります)、未だに読み通せていないのですが(ただし、このシリーズの資料として今までの記事の参考にはしました)、せっかくですので巻末にある解説文を紹介いたします。

嬉しいことに解説は村上春樹さんがされているんですよね♪

解説――身を粉にして小説を書くこと
               村上春樹

レイモンド・カーヴァーは一九三八年五月生まれだから、僕より(日本風に学年でいえば)十歳年上になる。もちろんだからどうというわけでもないのだけど、そのことはなぜかいつも頭の中にあった。「あの人はちょうど十歳、僕より年上なんだ」と。

この気持ちはとても良く分かります。自分にとっての春樹さんがまさにそうだからです(ということは、カーヴァーは――日本風学年でいえば――二十歳年長になるわけです。ただし、二十歳の頃のカーヴァーには既に二人の子供がいたわけで、そういう意味では「文学的おとっつぁん」と呼んでもいいかもしれません)。

彼が亡くなったのは一九八八年八月で、享年五十歳だった。僕はそのとき四十歳を目前にしていた。個人的な話をさせていただくと、前年の秋に小説『ノルウェイの森』が出版されてベストセラーになり、それに関連していろいろとややこしいこと、煩わしいことがあった。それでまた(当時住んでいた)ローマに戻って、そこで生活を送りながら次の長編小説『ダンス・ダンス・ダンス』を執筆しているところだった。
八月のあるひどく暑い日に、日本の知人から「レイモンド・カーヴァーが亡くなったらしい」という知らせがあり(その頃はまだインターネットなんてものはなかったから、ニュースが伝わる速度は遅かった)、びっくりすると同時に、大きなショックを受けた。カーヴァーは僕が敬愛する作家であり、その作品を熱心に日本語に翻訳してきた人であり、一度会って話をしたこともあった。本人も日本を訪れることを真剣に考えてくれて、僕は彼と日本で再会することを楽しみにしていた。その矢先のことである。体調がすぐれないということは耳にしていたが、まさかこんなにあっさりと亡くなってしまうとは思わなかった。作家としてのまさに全盛期を迎えているときの死である。惜しんでも余りある。
でもそれと同時に、こんな風にも思った。彼をこうして失ったことは本当に残念な、悲しい出来事ではあるけれど、五十歳まで生きて、これだけ多くの価値ある作品を書き上げ、それをあとに残して静かに世を去るというのは、ひとつの素晴らしい達成であり、美しい人生のあり方かもしれない、と。そのときの僕には――実に愚かしいことだが――五十歳というのはずっと先の方に控えている人生の立派な節目のように思えたのだ。そこは険しい山道の途中にある開けた台地で、こざっばりした展望台みたいになっており、「五十歳」と書かれた里程標が立っている。そこで一服して、冷たく澄んだ湧水で喉を潤し、振り返ってこれまで歩んできた人生の裾野を見渡すことができる。その台地の先には「老齢」というより険しい山道が控えている。
でもその十年後に自分が実際に五十歳を迎えてみて(それは『ねじまき鳥クロニクル』『アンダーグラウンド』『スプートニクの恋人』を出版したあとだった)、そこで判明したのは、五十歳という年齢は人生の立派な節目なんかではなく、実はぱっとしない中途半端な通過点に過ぎず、そこには見栄えのするものなどほとんど見当たらないという事実だった。里程標もなければ、澄んだ湧水もなく、クリアな人生の展望なんてまったく望むべくもない。そしてそのときに僕は深く反省することになった。「あんなことを考えるなんて、自分の気持ちを納得させる必要があったとはいえ、十年前の僕はなんと無神経で不遜だったんだろう」と。
僕自身のことを語らせていただければ、五十歳を迎えた時点では僕は小説家として、自分が書きたいことの――あるいは書けるはずだと感じていることの――まだ半分も書いていなかった。「もしこんなところで自分が病を得て、死ななくてはならないのだとしたら、悔しくてたまらないだろうな」とつくづく思った。文字通り死んでも死にきれない気持ちだ。
僕は五十歳というポイントを越えてから、長編小説だけに限っても『海辺のカフカ』を書き、『1Q84』を書き、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を書いた。その他にもいくつかの短編小説集と中編小説を書いた。もし作品目録からそれらの作品群がまとめて削除されるとしたら、それは(他の人がどのように考えるかはもちろんわからないが)僕としてはとても耐えがたいことだ。それらの作品は今では僕という人間の、欠くことのできない血肉の一部になっているのだから。一人の作家が死ぬというのは、ひとつの命のみならず、来るべき作品目録を据えたままこの世から消えて行くことを意味するのだ。
カーヴァーが死を目前にして、「五十歳で自分がこの世を去る」という事実をどのように受け止めていたのか、僕にはもちろん正確なところは知るよしもない。自分の病状がきわめて深刻なものであり、治癒の余地がほぼないことを彼は認識していた。その心情は晩年に書かれたいくつかの詩の中に、かなり明瞭に書き込まれている。しかしそれは言うなれば「公的」な表明のようなものだ。もちろんそれなりの覚悟のようなものはあったに違いないが、それと同時にカーヴァーには、最後の最後になって、自分の身に何かしら輝かしい奇跡が起こることをひそかに期待していたような節がある。カーヴァーのそれまでの人生では、普通では考えられないような奇跡的な出来事が何度も起こり、窮地に陥った彼をそのたびに救済してきた。もう一度そういうことが起こらないと誰に断言できるだろう? 僕としては彼に、そのような理不尽なまでに楽観的な希望を最後の最後まで抱いていてもらいたかったと思う。
カーヴァーの最期は本書の中でこのように描かれている。


レイは痛みを感じていて、どんな姿勢をとっても楽になることができなかったが、上機嫌だった。彼は〔付き添っていた――村上注〕エステスとチェーホフや映画について少し話をした。そのあとレイは眠ったが、エステスはずっと起きてレイの呼吸を聞いていた。
翌日の朝早く、レイが苦しそうな呼吸になった。エステスはテスを起こした。彼女はレイを抱き、小さな声で話しかけたが、レイは応えず、目も開けなかった。一九八八年八月二日、まもなく夜が明けようというころ、レイモンド・カーヴァーは息を引き取った。

この「上機嫌だった」という部分が、僕を少しだけほっとさせる。
そして僕は今、カーヴァーが亡くなったときの年齢よりもう十四歳も上になってしまった、そして人生の節々でカーヴァーのことをふと考える。「たった」五十歳で、志半ばにしてこの世を去らなくてはならなかった一人の優れた作家のことを、そしてその度に「僕はたまたまこうして生きていられるのだから、しっかりと良い仕事をしなくてはいけないな」と自らに言い聞かせることになる。そういう意味では、レイモンド・カーヴァーは亡くなった今でもなお、僕にとっての大事な文学的同行者であり続けていると言ってもいいかもしれない。


つづきます。

レイモンド・カーヴァーに学ぶ その26

Literature


前回記事で川本三郎さんが言及していたカーヴァーのエッセイ「父の肖像」は確かに無駄がなく説得力のある文章で読ませてくれます(興味のある方は実際に読んでいただけたら……と思います)。
その中でカーヴァーは「二十二歳の父の写真」という詩を披露しているんですが、その前後の文章を紹介しましょう。

私の母は彼らが新婚当初ワシントンにいたころの写真を何枚かもっていたが、その中に、父がビールとひもにとおした魚を持って車の前に立っているものがある。写真にうつった彼は帽子を髪のはえ際までずらし、居心地の悪そうな笑みを顔に浮かべている。私がその写真をくれないかと頼むと、母は他の何枚かの写真と一緒にそれを私にゆずってくれた。私はその写真を壁にかけ、引越すたびにそれをまた新しい壁にかけるべく持ちはこんだ。そして折りにふれてはそれを眺め、父親についての何かを理解し、それを通して、ひいては私自身をも理解しようとつとめた。しかしそれはうまくいかなかった。父はどんどん私から遠ざかり、過去の時間の中に埋もれていった。そしてそうこうするうちに引越しに紛れて、私はとうとうその写真を失くしてしまった。そのとき私はそれをなんとか思い出そうとつとめ、同時に父について何かを書いてみようとした。我々二人がいくつかの重要な共通性を有しているかもしれないと思ったことについて私は書いてみたがった。私はその詩をサン・フランシスコの南側近郊にあるアパートの一室で書いた。その当時、私は父と同じようにアルコール中毒に苦しんでいた。その詩は私と父との結びつきを求めようとした試みだった。

二十二歳の父の写真

十月。この湿っぽい見なれぬキッチンで
僕は父の居心地の悪そうな若者のころの顔を眺めている。
おどおどした笑みを浮かべ、片手にひもに吊したとげだらけの
スズキを持ち、もう一方の手には
カールズバーグ・ビールの瓶。

ジーンズにフランネル・シャツという格好で
1934年型フォードのフェンダーにもたれ
彼はその勇猛さと強健さを後世に伝えようと試みている。
古い帽子を耳がかくれるくらいあみだにかぶったりしている。
父はいつも男っぽくあろうとしていた。

しかしその目を見れば父の本当の姿がわかる。そしてその両手。
それは死んだスズキの口にかけたひもをたよりなくさしだし
ビールの瓶を握っている。父さん、僕はあなたのこと好きだよ。
でも感謝するわけにはいかないな。僕もやはり酒にふりまわされているようだ。
どこに魚を釣りに行けばいいのかもわからないんだもの。


最初に出てくる「十月」というのをのぞけば、その詩は細部まで現実に即している。父が死んだのは本当は六月だ。私は響きに含みをもたせるために一音節のJuneよりはOctoberの方を選んだのだ。しかしそれにも増して、私はその詩を書いたときの気分にふさわしい月を選びたかったのだ。日が短くなって日の光が弱まり、空気がぼんやりとして、事物が枯れ落ちていく月をだ。それに比べて六月には夏の輝きが溢れ、卒業式の季節であり、私の結婚記念日のある月でもあり、私の子供の一人の誕生日もある。六月は父を亡くすのにふさわしい月ではない。
葬儀場での式が終わったあとで外に出ると、私の知らない女性が私のところにやってきて、「お父さんは亡くなって幸せになったのよ」と言った。彼女が立ち去ってしまうまで、私はじっとその女性の顔を見つめていた。私は彼女の帽子のてっぺんについていた飾りを今でもよく覚えている。それから父の従兄の一人がやってきて――私はその従兄の名前を知らなかった――私の手をとり、「俺たちはみんなとても哀しいよ」と言った。それがただの月並みな悔みの言葉でないことは私にもよくわかっていた。
父の死を知らされてからはじめて私は泣いた。その前には泣くことができなかったのだ。ひとつには、泣くだけの時間的な余裕さえなかったのだ。しかしそのとき突然、涙が止まらなくなってしまった。その夏の午後の盛りに私は妻の体を抱いて泣きつづけた。妻は精一杯私を慰めてくれた。
人々が母を慰める言葉に私はじっと耳を傾けていた。父の一族が顔を見せてくれたことは嬉しかった。彼らはわざわざ父の住んでいた町までやってきてくれたのだ。私はそのとき交わされた言葉や起こった出来事のすべてを頭に刻みこんでおけば、いつかそれについて何かを書けるかもしれないと思った。しかし今のところ何も書いてはいないし、何もかも、あるいはそのあらかたは忘れてしまった。私が覚えているのは、私と私の父が共有する名前がその日ずっと人々の口にのぼっていたということだけだ。しかしもちろん彼らが囁いていたのは父の方の名前だ。レイモンド、と人々は私が子供のころ耳にした美しい声でその名を囁いていた。「レイモンド」。


こうしてこのエッセイは閉じられます。

つづきます。

レイモンド・カーヴァーに学ぶ その25

Literature


付録の冊子には川本三郎(その1その2)さんの文章も掲載されています。
こちらのタイトルは「生活に追われて」です。

アメリカの父親は、男の子どもに三つのことを教える義務があるという。野球と、釣りと、キャンプの火のおこし方。
たとえばヘミングウェイの父親は、この三つをきちんと息子に教えたと思う。J・D・サリンジャーの父親はたぶん三つとも教えなかった。トルーマン・カポーティにはそもそも父親がいなかった。ジョン・チーヴァーの父親は野球だけは教えたと思う。
それならば、レイモンド・カーヴァーの父親はどうだろう。カーヴァーの小説には釣りがよく出てくるから、父親は釣りだけは教えたかもしれない。いや、おそらく、カーヴァーは父親に釣りを習わなかった。習うことが出来なかった。それはたぶん父親に、息子に釣りを教える余裕がなかったからだ。
とすると、カーヴァーは、父親から大事な三つのことを教わらなかったと想像される。子どものときに野球も、釣りも、キャンプの火のおこし方も、父親に教えてもらえなかったこと、その欠如感が、カーヴァーの作品をおおう不安感、不安定感のもとではないか。カポーティにもこの欠如感はあるが、カポーティの場合は、そもそも、野球にも、釣りにも、キャンプにも興味があったとは思えない。カーヴァーは違う。本当は、父親に教えてもらいたかったのに、父親にその余裕がなかったために、とうとう欠如のままできてしまった。子ども時代に、大きな忘れものをしてきてしまった。

こんな想像をはじめたのは、他でもない、カーヴァーが父のことを語った『父の肖像』を面白く読んだからである。それによれば、カーヴァーの父親は、大恐慌時代を生きた、ブルーカラーである。
アメリカの現代史のなかで、大恐慌は、おそらく第二次大戦よりも大きな、苦難の体験である。ハードタイムズである。この時代を生きてきた世代は、どんなにその後、まともな暮しが出来るようになっても、貧困と失業の悲惨な記憶からのがれることが出来ない。『雉子』という小品のなかに主人公の男が、農園労働者の住む移動バラックを見て「スタインベックの世界だな」というところがあるが、カーヴァーの父親もあの時代、いつ『怒りの葡萄』の農民たちと同じになってもおかしくない境遇にあった。
カーヴァーによれば、父親は、そのころ「リンゴもぎ」をしたこともあるし、ダム建設の労働者をしたこともあるという。そのあとワシントン州の小さな町の製材所で働き、子どものカーヴァーも同じようにそこで働いた。カーヴァー家にはずっと車がなかったというから、貧しい暮らしだったのだろう。「レイモンド・カーヴァーという(父の)名は支払い能力のない一人の男を意味することになった」。
父親にはたとえそうしたいと思っても、息子に三つのことを教える余裕はなかったと思う。釣りにだけは連れて行ってくれたようだが、カーヴァーの作品に描かれる釣りは、とても幸福に見えない(たとえば本巻――『ファイアズ(炎)』――の『キャビン』『みんなは何処に行ったのか?』)ところを見ると、父親が連れて行ってくれたかろうじての釣にもカーヴァーはあまりいい思い出はないのではないか。



ブルーカラーだった父親と同じように、レイモンド・カーヴァーも、その日暮し的な職業を転々とした。―『ファイアズ(炎)』の中で、「私は製材所で働いたり、用務員のようなことをやったり、配達をやったり、ガソリン・スタンドで働いたり、倉庫番をやったりした。とにかく文字通りなんだってやった」と書いている。もちろん、作家になるための人生修業でではない。ただ、生きるためである。カーヴァーは大学にも行っていない。その点で、ジョン・アプダイクのような東部の知識人作家とはまるで違う。中西部のいわゆるレッドネックのほうに近い。
本巻の作品を見ても『ハリーの死』の自動車修理工とか、『みんなは何処に行ったのか?』の失業中の男とか、カーヴァーの作品には、アメリカのブルーカラー、忘れられた人々が多い。映画化するとしたら主演はハリー・ディーン・スタントンあたりが似合いそうだ。
カーヴァーの、短篇というスタイルも、彼のこうしたブルーカラーの生活から生まれた、切実な表現形式だった。毎日、食うための仕事に一日の大部分をとられるブルーカラーの生活では、じっくりと腰をすえて長篇を書く余裕はない。一日の残りの、「きれっぱし」のような時間のなかで「もの」を書くとしたら、短篇にならざるを得ない。好き嫌いの問題ではない。それはリアルな生活の問題である。
カーヴァーはそのことに自覚的だった。その点で『ファイアズ(炎)』は、とても切実なエッセイだ。よくある作家の「創作の秘密」のような気取ったものではない。「なぜ短篇を書いたかって? 生活に追われていてとても長篇なんか書く余裕がなかったからさ」。簡単にいえばカーヴァーはそういっている。生活のリアリズムである。父親がカーヴァーに三つのことを教えている余裕がなかったように、カーヴァーには長篇を書いている生活の余裕がなかったのである。カーヴァーの短篇は、切羽詰まった生活の必然から生まれた形式なのである。それだけにカーヴァーは、筋金入りの短編作家ということが出来る。考えてみれば、短篇の名手チェーホフだって、生活に余裕がなかったから次々に短篇を「書き散らした」。そこから傑作が生まれた。
比喩的にいえば、短篇というのは日雇い仕事のようなものである。リンゴもぎの仕事のようである。生活に追われ、追いつめられ、余裕のなくなったところから生まれる。だからこそ面白いのである。
ところでむ、カーヴァーに男の子はいたのだろうか。男の子がいたとしたら父親として三つのことを教える余裕があっただろうか。


たしかカーヴァーが二十歳になった年に息子が生まれたんですよね(ヴァンスという名で、学年的にはボクと同じです)。

川本さんの文章はこれで終わりですが、今シリーズはまだまだつづきます。

レイモンド・カーヴァーに学ぶ その24

book


「レイモンド・カーヴァー全集」には数ページの小さな冊子が付録としてついているんですが、その中に小川洋子さんの文章が載っていますので、今回はそれを紹介します。

題して「村上春樹とカーヴァーの瞳」です。

個人全集の付録に、その作家や作品についてではなく、翻訳者について書くというのは、もしかしたら常識外れなことなのかもしれない。しかし、『「レイモンド・カーヴァー全集 村上春樹訳』においてなら、それは許されるだろうと思う。
多くの人が村上春樹を通して初めてカーヴァーの名前を知り、彼が訳すのなら読んでみようか、という気になって本を手にしたに違いない。もちろん、わたしもそんな読み手の一人だ。


これはもう、全く同感です。で、案の定大正解でして、そこからカーヴァーにハマったわけです。

翻訳者に惹かれて外国の小説を読むなどという経験は、今までなかった。

そうですか? ボクなんて、まんま翻訳者で選んでしまうことがよくありますので、このあたりは若干違いますね。

カーヴァーだけではない。ジョン・アーヴィングも、C・D・B・ブライアンも、リチャード・ブローティガンも、そしてスコット・フィッツジェラルドも、村上春樹が注目している作家だからこそ、わたしも読んだのだ。そしていつも、期待は裏切られなかった。彼らはみんな、わたしにとっても、大切な作家になった。

これはまあ、概ね同じです。とりわけ、アーヴィングとブローティガンは全く同意します(だし、ブローティガンは絶対的に藤本和子訳に限りますけどね)。

もし、村上春樹という人がいなかったら、わたしは『ささやかだけれど、役にたつこと』も『西瓜糖の日々』も知らずにいたのだなあと思うと、改めてそのことの重大さに驚いてしまう。限られた人生の中で、本当に上質で真摯で真実の小説に出会わせてくれたことに、感謝しないではいられない。

小川洋子さんの読書遍歴の中で、『西瓜糖の日々』は特権的なポジションにいるようですね。

『風の歌を聴け』で彼がデビューした翌年、わたしは岡山から上京して早稲田大学に入学した。十八になったばかりで、まだ小説など一つも書いたことがなく、それでも何かを書きたいという漠然とした思いだけは抱えていた。
その頃わたしは、小説を書くという作業を堅苦しく考えていた。表明したいもの、輪郭を示したいもの、たどり着きたい地点が、書き始める前から確かに自分の中にあって、それを言葉で置き換えていくことが、つまり小説を書くことなのだ。自分の中に、確かなものが見えてこない限り、何も書けないのだ。という具合に。
ところが、村上春樹はそんな窮屈な考えを、粉々にしてしまった。わたしは呪縛を解かれたような気分だった。
『風の歌を聴け』は、「分からない」という場所から生み出された物語だった。昔は何かが存在していたはずなのに、いつのまにかそれが消え去っている。その空白の中で、〝僕〟は「分からない」を繰り返す。消え去った何かの正体を見極めようとして、もがいたり、分かった振りをしてみせたりはしない。ただ静かにたたずんで、微かに残った気配をかぎながら、空白の密度を深めてゆくだけだ。
「分からない」場所からでも小説は書ける。今の自分にだって小説は書ける。そんな勇気を、彼から与えられた。
大学に入学してすぐ、わたしは現代文学会というサークルに入った。そこでは毎週、読書会が開かれていた。テキストに何を選ぶかは全くの自由。取り上げてもらいたい小説があれば、どんどん提案して構わなかった。ただ、一週間で読み切れる長さであること、それから、みんな貧乏学生だったので、文庫に入っている小説であること、その二つが条件だった。
ところが『風の歌を聴け』は文庫になるのが待ち切れず、単行本のままテキストに採用された。当時の大学生にとって、それだけ彼の出現は衝撃的だった。
読書会の日、わたしは佐々木マキ装画のその本を持って、午後六時に高田馬場のルノアールに行った。まだ誰も来ていなかった。あれこれと書き込みをしたページをめくりながら、ジュースを飲んだ。みんななかなか来てくれないので、また最初からそれを読み直した。とうとう全部読み終えて、八時近くになっても、誰も現われなかった。
部室の掲示板で、日にちと場所をちゃんと確認したつもりだったのに、わたしはどこかで間違いをおかしたらしい。その日の読書会で、わたしは誰とも話をすることができず、ただ一人きりでルノアールの椅子に腰掛けていただけだった。『風の歌を聴け』に満ちている空白感と、わたし自身を取り巻いている空白感が、重なり合ったように思えるひとときだった。
村上春樹の小説の中で一番好きなのは、 『午後の最後の芝生』だ。子猫たちをキャンプ・ファイアの「まき」みたいに積み上げるところや、丁寧に丁寧に芝生を刈る〝僕〟の仕事ぶりや、アル中気味のおばさんの言葉遣いや、女の子の部屋を観察する場面が好きだ。夏の陽射しの中で、淡々と芝生が刈られていって、ふと気がつくと、胸の深いところにきしみが残っている。それを消す方法を、誰も知らない。


うん、「午後の最後の芝生」はボクも大好きな短篇のひとつです。「不在の在」ってのを強く感じる作品でもありますね。



小説の方から読み手に向かい、いきり立って攻撃をしかけるようなことはせず、ただ、ざらり、とした感触だけを残す。二人の小説には、そんな共通点があるように思う。

カーヴァーの作品の中では、『収集』が一番いい。外側から突然にやってきた不条理と、無一文で妻に逃げられた男の間に漂う、不愉快と不気味さと奇妙さが、短いページの中に、きっちりと封じ込められている。決して噴出はしてこない。物語の内側でくすぶり続けるだけだ。
『書くことについて』というエッセイの中でカーヴァーは、
「作家というものはときにはぼうっと立ちすくんで何かに――それは夕日かもしれないし、あるいは古靴かもしれない――見とれることができるようでなくてはならないのだ。頭を空っぽにして、純粋な驚きに打たれて」
と言っている。もちろん写真でしか知らないのだけれど、カーヴァーの瞳にも村上春樹の瞳にも、その〝純粋な驚き〟が宿っているように見える。ちっぽけな一つの品物にひそんでいる物語を、すくい上げようとするひたむきさがにじんでいる。


以上です。

んで、つづきます。

レイモンド・カーヴァーに学ぶ その23

Literature


今度は「聖テレサの書いた一行についての考察」です。

聖テレサが書いた文章の一行がここにあります。考えれば考えるほど、それは今日のこのような集いにふさわしいものに思えます。というわけで、わたしはそのセンテンスについて考えをめぐらせてみようと思います。それは最近出たテス・ギャラガーの詩集のエピグラフとして使われております。テスは私の親しい友人であり、伴侶であり、今日私とともにここに出席しております。彼女の詩集のエピグラフという文脈で、私はこの一行を考えているのです。
聖テレサという、三百七十三年前に生きていた傑出した女性は、このように述べています。「言葉とは行為を導くものです……言葉は魂に準備をさせ、用意を整えさせ、そしてそれを優しさへと動かすのです(“Words lead to deeds...they prepare the soul,make it ready,and move it to tenderness.”)
この思いは「まさにこのように表現されたからこそ」明晰さと美しさを湛えています。私はそのことを強調して申し上げたい。というのは時が移り、私たちが語ることと、私たちが行うこととのあいだに存在するはずの重要な関連性が、彼女の生きた時代のようには当然のこととして人々に認識されていない今の時代にあって、彼女の心情にはまた、私たちにはすんなりとなじめないような、異物にも似た何かがわずかに含まれているからです。「言葉が行為へと通じます……。それは魂(ソウル)に準備をさせ、用意を整えさせ、それを優しさ(テンダネス)へと動かすのです」
聖テレサが用いた言葉ひとつひとつには、また重みと信念をたっぷりと込めたそれらの用いられ方には、「いくぶんミステリアスな」という以上のものがあります――「神秘主義的な(ミステイカル)』と言ってしまいたいくらいです。まったくの話、それらは遥か以前の、より思索的であった時代のこだまのようにさえ感じられます。とりわけ「ソウル」という言葉がそうですね。この言葉は今ではもう教会の中か、あるいはたぶんレコード店の「ソウル」セクションでしかお目にかかれないものになってしまっています。
「テンダネス」も同様です。最近ではこの言葉もすっかり耳にしなくなりましたね。とくにこのように衆目の集まる、めでたい場所においては。考えてもみてください。この前いつあなたはこの言葉を朽ちにしたでしょう? あるいは誰かが口にするのを聞いたでしょう? これはさきほどの「ソウル」に負けず劣らず、供給が減ってしまった言葉ですね。
チェーホフの小説『六号室』に、モイセイカという実に見事に描かれた人物が登場します。




彼は病院の精神病棟の中に拘禁されているのですが、ちょっとしたテンダネスの行為を習慣にしています。チェーホフは書いています。「モイセイカは誰かの役に立つのが好きだ。彼は仲間に水を与え、寝た人には布団をかけてやる。彼らの一人一人に一コペイカずつ持ち帰ることを約束し、新しい帽子を作ってやることを約束する。左側の全身麻痺の隣人にはスプーンで食事を食べさせてやる」たとえテンダネスという言葉が使われなくても、私たちはこのような描写の細部に、その存在を感じ取ります。たとえチェーホフがそのあとに、モイセイカの行為に対して割引きをつけ加えていたとしてもです。彼は言います。「彼はこのような行為を、同情心や、あるいは人道的な思惑から行っているわけではない。それはグローモフという、彼の右側の隣人に無意識的に作用を受け、彼の真似をすることでもたらされたものだった」
刺激的な錬金術を用いて、チェーホフは言葉と行為とを化合し、私たちにテンダネスの起源と本質について、あらためて考えさせてくれます。それはいったいどこからやってくるのでしょう? ひとつの行為として、たとえ人道的な動機から切り離されたものであったとしても、それはなおかつ人の心(ハート)を動かすのでしょうか?
何の見返りも期待せず、あるいは自覚すらなく、心優しき行為を実行する孤立した一人の男のイメージは、たまたま遭遇した風変わりな美しさとして、私たちの前にとどまります。あるいは場合によってはそのイメージは、「あなたはどうなのか」というまなざしとともに、私たち自身の人生に反映してくるかもしれません。
『六号室』にはまたこんな場面もあります。心に不満を抱いている医師と、横柄な郵便局長という二人の登場人物が、何かの加減で突然人の魂について論争を始めます。郵便局長は医師より年上です。
「じゃあ、あなたは人間の魂の不滅性を信じてはおられんわけですな?』と郵便局長は突然問いかけます。
「信じてはおりませんとも、ミハイル・アヴェリヤーヌィチさん。そんなものを信じなくてはならない理由もありませんからね」
「私もまあそれを疑わんでもない」とミハイル・アヴェリヤーヌィチは認めます。「それでも、私は心の底でふと感じるんですよ。私は決して死んでしまったりはしないのだとね。『おい爺さん、もう死にどきだぞ』と誰かが言う。でも私は、自分の魂の中で小さな声がこう言うのが聞えるんですな。『そんなことを信じてはいけない。お前は死にはしないんだ』とね」
場面はそこで終わります。しかしその言葉は行為として残ります。「魂の中の小さな声」が生まれるのです。そしてまた私たちは、生きることや死ぬことについてのある概念のようなものを、おそらくは捨ててしまっていたはずなのに、たしかに細くはあるけれど簡単には引き下がらないひとつの信念に、気がつけば心を惹かれているのです。
私がここで述べたことはいずれ、数数週間あとか数ヵ月あとかわかりませんが、みなさんの頭の中から消えてしまうでしょうが、このような盛大な集いに出席したという感覚だけは、きっとあとあとまで残ることでしょう。これはみなさんの人生におけるひとつの素晴らしい時代が終わり、新しい時代が始まろうとしている刻み目としての集いです。そこで、みなさんがそれぞれの運命を追求するかたわら、この言葉をひとつ覚えておいていただきたいのです。それは、「正しく真実である言葉は、行為としてのパワーを持ち得る」ということです。
もうひとつ。公共の場においても個人の場においても、日常的用途からはじき出されて、今では絶滅の危機に瀕している「テンダネス」という言葉、これもちょっと頭にとどめておいていただきたいのです。とくに害にはならないはずです。それからもうひとつのべつの言葉。ソウル。なんなら、もしその方が馴染みやすいというのであれば、「精神(スピリット)」という言葉で置き換えてもらってもかまいません。そちらをも忘れないでいただきたいのです。あなたの口にする言葉、なす行為のスピリットに注意を払ってください。それこそが準備です。これ以上言葉は要りません。


カーヴァーのエッセイは以上です。でも、このシリーズは更につづきます。

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コウです。プロフィールの画像が詐欺ではないかとの噂がありますが(笑)、ン十年前はこんなでしたってば! と言い張っちゃう^^
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