大いなるデジャヴュ その7

Literature


村上春樹さんの『騎士団長殺し』(及び『みみずくは黄昏に飛びたつ』の続きです。

――じゃ、とにかく最初にその「騎士団長殺し」という言葉がやってきて、このタイトルで何か書かなくてはダメだという気持ちになって、それから「騎士団長殺し」という言葉がしばらく頭の中にあり続けるわけですね。

村上 半年か一年か二年かわからないけど。

――そんなに長い期間?

村上 そのぐらいはかかるんじゃないかな。言うなれば言葉を自分の中で発酵させていくわけだから。

――「騎士団長殺し」という言葉がやってきたとき、村上さんは具体的に何を書いているときだったのかな。一年から二年前だったら。

村上 うーん、思い出せないな。半年前くらいかもしれない。一年くらい前かもしれない。いろんなことをしょっちゅう思いついているから、時期的なことはよくわからないな。でもとにかく『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を書き終えたあとだったと思います、しかしどこから「騎士団長殺し」というタイトルが出てきたんだろうね。一見して小説のタイトルにはなりそうにない感じだし。

――一度聞いたら忘れられない不思議な強さもあって。

村上 でもそういうある種の不思議さって、タイトルには大事なんです。ちょっとした違和感みたいなものが。で、僕の記憶によれば、まずタイトルができた。それとは別に、上田秋成の『春雨物語』に入っている「二世の縁(にせのえにし)」という話が僕は昔から好きで、あれをモチーフにしたものを何か書きたいなと、ずっと昔から思っていたんです。それと「騎士団長殺し」というタイトルが一緒になって。でも「二世の縁」と「騎士団長」ってぜんぜん結び付かないですよね(笑)。それともう一つ。第一章の出だしの文章、「その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの山の上に住んでいた」から、「エアコンがなくてもほぼ快適に夏を過ごすことができた」までの文章を、僕は既にどこかの時点で書いていたんです。これという目的もなく、そういう文章を書き留めていた。

――まったく別に、独立した形で書いていたんですか。

村上 うん。その一節がパソコンの片隅にペーストしてあった。「その年の五月から」みたいな見出しをつけて。僕はそういう文章をよく、何の脈絡もなく書くんです。ただ書いてとっておく。

春樹さんで「五月」といえばボクは「5月の海岸線」をどうしても連想してしまうんだけど……。

――『スプートニクの恋人』の冒頭もそうでしたよね。


村上 パッと頭に浮かんで、「あ、こういう書き出しで文章を書いてみよう」と思うんです。『スプートニクの恋人』の最初の文章もそうだった。あれも書いて、それを半年か一年間ほっといて、ときどき引っ張り出しては書き直して、だんだんだんだん磨いていって、それが自分の中にうまく残るかどうかを待っているわけです。粘土の塊を壁に投げつけて、くっつくか落ちるかを見てみるみたいに。落っこちて残らないという場合ももちろんあります。

――アイディアを書き留めるということはありそうなんですけど、文章そのものを置いとくというのはちょっと珍しいかも。

村上 うん、小説のアイディアみたいなものを書き留めることって、僕の場合あまりないですね。僕は手を使って文章を書くことによって物を考える人間だから、ある程度の長さの文章を書くという作業が大事になってきます。一塊の文章をとりあえず書き上げて、そこにどんどん手を入れて直していく。そうしているうちに自分の中で何かが自動的に動き始める……というのを待っているわけだけど、それもやっぱり時間の経過が必要で、そういうのを書いてから二ヶ月後に小説になるかというと、それはないです。半年から一年、一年から二年という歳月がどうしても必要になってきます。
だから『騎士団長殺し』に関していえば、その別々の三つの要素がスターティング・ポイントになってるわけです。冒頭の一節の文章と、「騎士団長殺し」というタイトルと、それから、何だっけ? そう、「二世の縁」をモチーフにするということ。この三つが別々にあって、それがひとつに結びついていくんです。三人の友達がどこかで偶然一堂に会する、みたいな感じなんだけど、そこに至るまでにはまとまった時間が必要になってきます。だから僕の場合は、長編小説というのは、ほとんどが待つ作業なんです。二年ぐらい待って書き始めて、一年か二年かけてそれを書き上げる。だから、書いている時間よりはむしろ待ち時間のほうが長い。サーファーが沖合で波を待つのと同じような感じです。


――で、書き始めると村上さんの場合、絶対に一日十枚書く。何があっても、とにかく十枚書くということをご自身に課していますよね。

村上 まあ、何があってもというわけにもいかないけど、基本的にはね、うん。

――何も決めないで書き始めると、何かに出会っていく。結果的にそうやって完成していくのは理解できるるんですが、例えば今日書くときに、その「何か」に出会えるかどうかってわからないじゃないですか。先ほどの表現で言えば……お友達と巡り合えない日っていうんでしょうか。そういう日でも必ず十枚は書くんですか。

村上 うん。一応書きます。もし友達が来てくれなくても、来てくれそうな環境を作っておいてあげないといけない。ちょっとこのへんに座布団敷いて、掃除して机を磨いて、お茶いれとこうと。そういう感じの「下ごしらえ」みたいなことをやってるわけですね、誰も来ないときには。誰も来ないから今日は怠けて昼寝してよう、みたいなことにはならない。小説に関しては僕は勤勉だから。

すげぇ! さらっと言ってるけど、これを何十年も継続しているわけですからね、まさに超人です。

――じゃあ、「今日はここを書かないといけないけれど、ちょっと来そうにないな」という場合には……。

いいぞ川上さん、そのあたりもっと突っ込んで。

村上 そのへんの風景描写とかやってる(笑)。何はともあれ十枚は書きます。それは決まり事だから。
それで、この冒頭の文章のことなんだけど、「その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの山の上に住んでいた」。これはまったくの一人称ですよね? 僕はこのところしばらく、純粋な一人称の長編というのを封印していたんです。そして三人称に向かって方向転換みたいなことをやっていた。でもちょうどレイモンド・チャンドラーの長編小説をこの何年間か翻訳し続けてきて、そうしているうちに、久しぶりに一人称小説をみっちり書きたいなという気持ちがふつふつと湧いてきたんです。『1Q84』みたいな長いものを、三人称で最後まで書き切ることができたし、一応所期の目標は達成した。で、そろそろもう一回、一人称で長編を書いてもいいんじゃないかって思うようになった。この書き出しって、今考えてみると、なんとなくフィリップ・マーロウっぽいですよね。

――ええ、それは最初に感じました。久しぶりの一人称小説で、一人称代名詞を何にするかというのは、作品世界のトーンを決めるじゃないですか。「私」か「わたし」なのかで変わってくるし、「僕」か「ぼく」かでも、文体そのものや作品世界のムードを決めるし、主人公の性格自体にも関係してくる。今回、漢字の「私」にしたのも、そのチャンドラーの影響でしょうか?

村上 チャンドラーの翻訳はすべて「私」にしているから、その流れというか、勢いみたいなのはたしかにあったかもしれない。それからもうひとつ、やっぱり年齢的に、「僕」という一人称で長い小説を書くのはちょっときついかなという思いもありました。

春樹さんらしくない発言だ(笑)

――その「きつさ」について、もうちょっと伺えませんか。きついというのは、それは読まれるとき? それとも、ご自身が使うとき?

村上 僕自身が使うとき。日常生活でも「僕」って口にしているし、手紙なんかにも「僕」って書いているんだけど、それが小説になると、とくに地の文になると、なんだかちょっと面はゆいなあと。

ふう~~~ん、春樹さんでもそうなのか……。
それにしても面白いインタビューだなあー、インスパイアされまくりです。

つづきます。

大いなるデジャヴュ その6

book


村上春樹さんの『騎士団長殺し』の続きです。

今回は「今シリーズその4」で仄めかしていた川上未映子さんのインタビューを中心に語ります。

ネタ本は『みみずくは黄昏に飛びたつ』という書籍です。



「はじめに」で川上未映子さんが語り、四章にわたるインタビューがあって、「インタビューを終えて」と村上春樹さんが語るという構成になっていますね。帯にはこんなことが書かれています。

芥川賞作家にして、少女時代からの熱心な愛読者が、村上春樹のすべてを訊き尽くす。

誰もが知りたくて訊けなかったこと、その意外な素顔を、鮮烈な言葉で引き出す。11時間、25万字の金字塔的インタビュー。

『騎士団長殺し』誕生秘話、
創作の極意、少年期の記憶、フェミニズム的疑問、名声と日常、そして死後のこと。

作家にしか訊き出せない、作家の最深部に迫る記録

ただのインタビューではあらない

どうです? この惹句を読んだだけでも興味が湧いてくるでしょ?

(最後の「あらない」ってのはイデア化した騎士団長の特徴的な喋り方のひとつです)

第一章の「優れたパーカッショニストは、一番大事な音を叩かない」は、過去ログでも連載した『職業としての小説家』の中にも収録されています。



第二章「地下二階で起きていること」もまた、『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』等で触れたことのある春樹さんには馴染み深い内容のインタビューでした。



とはいえ、もちろん今回のインタビューは主として『騎士団長殺し』を中心にして行われているので、そのあたりの創作秘話なんかも出てきたりして、かなり充実した内容ではありました。冒頭はこんな感じです。

――(『騎士団長殺し』を)村上さんが書くことによってどういう体験をしたのか、書き終わったあとに、その体験がどんなものであったのか――この作品がもし一つの井戸とか穴のようなものだったとするのであれば、ふつう井戸には一人で入っていくものですけれども、今回は、ぜひ、わたしし一緒に井戸に入っていただきたいです。そして、そこで見えたものを言葉にしていけたらな、というふうに思っています。

村上 うーん、むずかしそうだけど、がんばりましょう(笑)

――まず、何といってもこの素晴らしいタイトル、『騎士団長殺し』。最初にぜひ伺っておきたいんですけれども、このタイトルはどのようにして?

村上 「騎士団長殺し」って言葉が突然頭に浮かんだんです、ある日ふと。「『騎士団長殺し』というタイトルの小説を書かなくちゃ」と。なんでそんなことを思ったのか全然思い出せないんだけど、そういうのって突然浮かぶんです。どこか見えないところで雲が生まれるみたいに。

――それは、モーツァルトを聴いていたからではなくて?

村上 じゃなくて、関係なく。あるとき、道を歩いていたのかご飯のときか、よく覚えていないけど、とにかく頭にポッと浮かんで、それがそのまま離れなくなる。『海辺のカフカ』の時も同じだったな。『海辺のカフカ』って小説を書きたいなというところから始まって、じゃ、主人公の少年はカフカ君にするしかないなあと。で、海岸付近に行かせようじゃないかと。わりに簡単なんです(笑)。

――海辺だし、みたいな。

村上 『ねじまき鳥クロニクル』も確かそうだったな。そういう具合にタイトルが先にできたものって、すごく楽なんですよね。話がそこから勝手に進んでいくから。

「先にタイトル派」の自分としては、ものすごく頷ける話です。

――そのタイトルがどれぐらいのサイズの物語になるかというのは、そのときなんとなく形としてわかるものですか?

村上 タイトルだけではまだわからない。形がわかってくるまでにはある程度時間の経過が必要なんです。時間の経過とともにそのまま消えていくものもあるし、ソリッドにどんどん固まっていくものもあるし、そればかりは時間が経ってみないとわかりません。

やはり時間がポイントのようです。

つづきます。

大いなるデジャヴュ その5

Literature


村上春樹さんの話題の続きです。

今回シリーズ『大いなるデジャヴュ』の初回に「免色」という名前について語りました(とても印象的であると共に『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を連想させるとも)。そんな風に近作では何かと印象的な名前を登場人物に付与する春樹さんですが(二作に登場してきた「牛河」や『1Q84』の「青豆」「天吾」あたりか記憶に新しいです)、デビュー当時はそうではありませんでした(むしろ名付けることを拒んでいたところがあります――ご本人もそう明言されていました)。



ところが故・安西水丸さんの本名である渡辺昇を借用するようになって以後(初出は短篇集『パン屋再襲撃』に収録されることになる「像の消滅」の飼育員の名がそうでした――ただし、『文学界』に掲載された時点では「渡辺進」でしたけどね)、そういう呪縛からは逃れられるようになったようです(そうすると生来の凝り性である部分が活性化されることになったんでしょうね、現在に至る独特な命名ぶりに繋がったわけですーー人物名に限らず)。



+++

それと、どうしても「井戸(あるいはそれに類似したもの)」に触れないわけにはいきませんね。

村上春樹さんと井戸といえば何てったって『ねじまき鳥クロニクル』を挙げなければなりません。春樹さんにとっても重要な意味を持つ作品ですが、この中で井戸が大活躍します(間宮中尉が井戸の中で過ごすシーンはレイ・カーヴァーの「僕が電話をかけている場所」に影響を受けたようです)。



とはいえ春樹さん、デビュー作の『風の歌を聴け』にも既に井戸を忍び込ませているんですよね(先にリンクを貼った過去ログでも語っていますが、興味のある方は実際に読んで探してみてください)。



もちろん井戸的なものは今作にも登場してきて、かなり重要な意味を持ちます(いわゆる「壁抜け」的な現象も起こりますし、その異界とのあわいで、血生臭いことも起こります――殺人と懐妊です)。

これもまた既視感のある事例ですよね。『海辺のカフカ』でも『1Q84』でも。

つづきます。

大いなるデジャヴュ その4

book


村上春樹さんの『騎士団長殺し』の続きです。

今回は村上春樹さんのオブセッションについて考えてみようと思います。

デビュー当時は基本的にデタッチメントを主眼に置いて物語を紡いでいた春樹さんですが、次第にコミットメントに移行し、それに伴って人称も拡大(あるいは展開)させてきました。

そのデタッチメントの根底にあったのは「父親」(その1その2 )なんじゃないかとこの場でも何度か言及してきました。

でもね、リンクを貼った過去ログでも言ってたけど、「父親の影」ってのは別に春樹さんの専売特許でも何でもなく、文学史においては(or文学史に限らず)極めてポピュラーな「こと」でもあります。ボクですら、そういう側面がありますもの。

もうひとつのコミットメントに関しては『ノルウェイの森』の登場人物のひとり「緑」が体現しているような、主人公が閉じ籠っていた「殻」に働きかけて、そこから出てくることを促してくれる存在です。春樹さん作品においては、必ず印象的(かつ特徴的)な女性が担うことになります(サンプル必要ですか?)。

このコミットを「陽」だとすれば、「陰」に相当するのが同世代なんだと想像するんです。これには春樹さんが「ひとりっ子」であることも関係しているんだろうけど、おそらくあんまり仲の良い友人がいない子供時代を送ってきたんじゃないかな? ひいてはそれが同世代との関りの経験不足につながり、やがて「同調圧力嫌悪の病」(笑)に冒されることになると……。その最たるものが春樹さん世代に麻疹のように蔓延した学生運動じゃないかと思うわけです(おそらく春樹さんの父親の戦争体験――中国戦線における――に匹敵するほどのPTSD的体験を春樹さんはしたんじゃないかと)。

+++

各種インタビューでも仰っていましたが(またいずれ触れることになると思います)今作はフィッツジェラルドの『グレートギャツビー』の多大な影響下にあるようです。

事実川上未映子さんのインタビューでそう答えられています。

川上 今日は、まず『ギャツビー』との関係から聞かせてください。地形や家の描写、免色さんの造形や、「私」との距離、関係性…ニック・キャラウェイとジェイ・ギャツビーとの関係を思い起こさせます。それは当然、意識されて?

村上 もちろん、それは始めから意識しています。谷間を隔てて向こう側を眺めるというのは、『ギャツビー』の道具立てをほとんどそのまま借用してるし、それから免色さんの造形も、ジェイ・ギャツビーのキャラクターがある程度入っています。


ほらね(笑)今回も川上さんはナイスなインタビューで春樹さんの貴重な声を拾ってくれています。

ということは、『グレートギャツビー』の結構がそうであるように、この物語の主人公は実は免色であって、主人公の「私」はひたすら語り手のポジションに甘んじているんじゃないか? という疑問が生じてきます。もしくはダブルキャスト的創りになっているんじゃないか……と。

そうすると文中に登場してくる謎の言葉「二重メタファー」も関係してくるのかもしれません。

「フィッツジェラルドの『他人と違う何かを語りたければ、他人と違った言葉で語 れ』という文句だけが僕の頼り」

だなんてことを、かつて春樹さんは語っていました。それが独特のヴォイスに繋がったんでしょうね。

……と思わせぶりに呟いて、つづきます(あしからず)。

大いなるデジャヴュ その3

Literature


村上春樹さんの『騎士団長殺し』の続きです。

村上春樹さんの長篇小説には、やたらと音楽やその他の作品がてんこ盛りに登場してくるのが常ですが(そして、それも楽しみのひとつなんですが)、今回気になったのは、会話で登場してきた「ローリング・ストーンズの古い歌のタイトルみたいだ」という主人公の科白でした。詳しくはこんな会話を交わしている間に出てきたんですがね。

「絵は描き続けるんでしょ?」

「たぶん。ほかにとくにできることもないし」

「うまくいくといいですね」

「ありがとう」

と私はもう一度礼を言った。それからふと思いついて、それに付け加えるように質問した。

「何かぼくが覚えておくべきことはあるでしょうか?」

「あなたが覚えておくべきこと?」

「つまり、なんていえばいいのかな、プロのアドバイスのようなものです」

彼は少し考えた。それから言った。

「あなたはものごとを納得するのに、普通の人より時間がかかるタイプのようです。でも長い目で見れば、たぶん時間はあなたの側についてくれます」

ローリング・ストーンズの古い歌のタイトルみたいだ、と私は思った。


(これに限らず今作では時間に関係する事柄についての言及が多いですね)

で、そのローリングストーンズの古い歌とは、間違いなく『Time is on My Side』でしょうね。


(ミック・ジャガーかわいい・・・笑 キースも若いし、ブライアンの姿には胸が詰まります)

+++

第2部の『遷ろうメタファー』は、前回語った少女が中心になって物語は展開することになります。

それと、気になるフレーズがあちらこちらに散見されます。

たとえば、

「私は話をしながら、彼女の顔の表情の変化や、様々な仕草をひとつひとつ脳裏に取り込んでいった。そのような記憶のストックが私の描くべき絵の、いわば血肉となる」(p23) や、

「ちょっとした表情の変化で、全体の雰囲気ががらりと違ってきます。一枚の絵に定めて彼女を描くには表面的な変化ではなく、その中心に存在するものをつかまえなくてはなりません。それができないと、全体のほんの一面しか表現できなくなってしまいます」(p35)

「絵というのは不思議なもので、完成に近づくにつれてそれは、独自の意志と観点と発言力を獲得していく。そして完成に至ったときには、描いている人間に作業が終了したことを教えてくれる(少なくとも私はそう感じる)。そばで見物している人には――もしそのような人がいたとすればだが――どこまでが創作途上の絵なのか、どこからが既に完成に至った絵なのか、まず見分けはつくまい。未完成と完成とを隔てる一本のラインは、多くの場合目には映らないものだから。しかし描いている本人にはわかる。「これ以上手はもう加えなくていい」、と作品が声に出して語りかけてくるからだ。ただその声に耳を澄ませているだけでいい」(P218)

なんて、そのまま村上春樹さんの創作スタイルの吐露に聴こえてきます。

+++

脈絡もなく続けますが、第2部の押し迫ったところで件の少女が免色氏の家の中に忍び込むシーンがあるんですが、ウォーク・イン・クローゼットに並んだ洋服についての描写があって、それは嫌でも僕に『トニー滝谷』を連想させましたね(『トニー滝谷』のあのシーンがとても好きなんですよね)。



それはまた、この場でも何度も語ったことのある「不在の在」(この過去ログって連載していたんだよなあ)に関係してくる「こと」なんですよね。「どうにもこういうのが溜まらなく好きなんだよなあ~オレ」って、つくづく思います(笑)

でも、初期の春樹さんが紡いでいた物語の結構も、結局は「それ」なんじゃないかな? って確信的に思っているんですよね。

+++

それと、これはまったく個人的な感慨なんですが、物語の舞台となっている土地が小田原ということで、読んでいる間中、異常に反応している自分がいました。小田原はまだ若い頃の自分にとって聖地のひとつだったからです。

ところで、第2部が終わると、その頁の末尾に〈第2部終わり〉と書かれています。

(これって、例によって続編があるんかいな?)

どうしてもそんなことを考えてしまうんですよね。これといった謎などほとんど残されていないっていうのに……。

つづきます(たぶん)。




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コウです。プロフィールの画像が詐欺ではないかとの噂がありますが(笑)、ン十年前はこんなでしたってば! と言い張っちゃう^^
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