物語の作り方 その26

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七章・第三部「シダリアとべリンダ」の続きです。

ガボ 最初のシーンでべリンダは鏡の前に立ち、歌をうたったり、独り言を言う。そして、シダリアが戻ってきたとたんに黙り込むという流れのほうがいいと思うけどね。その上、シダリアは妹がまるで口がきけないような扱いをするんだ。

グロリア その「まるで」というのが決定的ですね。シダリアは妹に話しかけるわけでしょう。ということは耳が聞こえないわけではないと考えているんですね。

ガボ
 彼女はべリンダが聾唖者でないことを知っているんだ。

ロベルト どうしてその点にこだわるんですか? ここまてで一番重要なことは姉妹の関係でしょう。だったら、その点を説明するなり、ほのめかせばいいんじゃないですか。でないと、最初のシークエンスで映画が終わってしまいますよ。

マルコス 
べリンダは姉としゃべろうとしないし、姉は姉でそうした状態を受け入れている。そのことを観客にわからせるのが大変なんだ。問題はどれくらい時間がかかるかだろうな。

ロベルト
 べリンダは口がきけない、観客がそう信じきっているとしてだよ、家でひとりきりになったべリンダがピアノの前に座り、鍵盤をやさしく押さえながら……突然小鳥のように歌いはじめるとしたら、すばらしくきれいなシーンになると思うんだ。そうすれば、最初から彼女はしゃべろうとしないだけだとわかっている場合よりも、ドラマとしてはるかに強烈なインパクトを与えるはずだ。

グロリア
 でも、わたしは彼女があの衣装をつけると歌をうたいたくなるという展開の方が好きだわ。べリンダは衣装をまとうと、心の奥深いところで人が変わったようになり、生きる意欲を取り戻したように感じるの。歌をうたうのはそのせいなの。

ロベルト 
衣装はやはり優雅さ、官能性と結びつかないとだめだよ……べリンダが衣装をまとうと、聴覚は別にして、視覚、触覚といった感覚が目覚めたようになる。それは彼女の身に起こることだけど、ぼくたちにも伝わってくる……その衣装をつけたべリンダが鏡に映る自分の姿を見て、腕や腰を愛撫する……。

ビクトリア
 たしかに優美な感じはするけど、インパクトが失われるわ。べリンダが衣装をつけながら歌をうたうと、見ている人は「晴れ着か新婦の衣装なんだな」って考える。そこに、突然降ってわいたようにシダリアが現れる。

ロベルト しつこいようだけど、そこはやはり歌よりも沈黙の方が雄弁だと思うんだけどな。

ガボ
 どちらをとってもいいんだが、沈黙を選んだ場合ひとつ難点がある。展開に時間がかかるんだ。テンポが遅くなるし、雰囲気も叙情的になる……。パラレル・モンタージュのコンテクストで考えないといけない、つまりシダリアが学校をあとにして、家に帰っていく……。日本の皇后陛下が雨傘をさしていたように、喪服を着た彼女も強い日差しを避けるためにパラソルをさしてこちらに向かって歩いてくる姿が目に浮かぶ……そうだ、これが捜し求めていたイメージなんだ……写真を手に入れて、みんなに見せてやらないといけないな。

レイナルド しかし、皇后陛下がさしていたのは雨傘でしょう。

ガボ いや、パラソルだ。わたしが見たのはオリジナルの写真ではなくて、白黒の複製だったんだ。だから、間違えたんだ。

ソコーロ 町の噂は司祭さんを通してシダリアの耳に入るんじゃないですか。近所の人たちが、べリンダはしょっちゅう歌をうたっていると噂しているんですから。

ガボ
 話は変わるが、自慰行為のところだけど、検閲の目をくらますためにシダリアを司祭の愛人にしてみたらどうだろう。どうせ検閲官を相手に喧嘩しなければならないのなら、できるだけ派手にやればいい。

ビクトリア 近所の人たちは、べリンダが庭の手入れをする時に歌をうたっていることを知っているんでしょう。

ガボ 近所の人が知っているんなら、司祭に関わりなく、姉の耳にも入るだろう。誰もが知っていることなんだから。


どうもロベルトは劣勢ですねえ~。

つづきます。

物語の作り方 その25

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七章・第三部「シダリアとべリンダ」に入ります。

ソコーロ わたしのストーリーはデニスのものとまったく逆で、舞台は田舎町だし、時代も古いんです。

ガボ 古いって、いつ頃?

ソコーロ 一九三〇年代です。

ガボ ちっとも古くないよ。ほんの一年前じゃないか。最近のことだから、よく覚えているよ。

ソコーロ 二人の姉妹、姉のシダリアと妹のべリンダの話なんです。二人は十五歳離れていて、シダリアは現在五十二歳、べリンダは三十七歳です。つまり、べリンダは十五歳まで一人娘として育ったんです。一かは地方の貴族で、一時栄えたあと没落するんですが、シダリアは当時のことを覚えています。彼女はとても甘やかされて育ったんですけど、一方で宗教的・道徳的規範に厳しく縛られて厳格なしつけを受けました。シダリアが十五歳になった時に、母親はべリンダを産んだんですが、それがもとで亡くなりました。ですから、べリンダは事実上シダリアの娘のようなものです。つまり、シダリアが彼女の母親代わりになったんです。

ガボ
 父親は同じなんだね。で、父親はまだ生きているの?

ソコーロ 母親が亡くなった三年後に、アルコール中毒で死んでいます。

デニス シダリアは当時十八歳だったのね。べリンダはまだとこても小さかったから、一家を襲った悲劇には気づいていなかったんでしょうね。

ソコーロ 二人の姉妹の心の中には、母親のイメージが伝説として生きているんだけど、とても美しくてエレガントな人だったの。町にはじめてヨーロッパの流行を持ち込んだのよ。華やかな衣装を身につけ、スカートをふんわり膨らませるクレノリンの下着をつけ、飾り結びのついた日傘をさし、先の丸いエナメルの靴を履いた彼女の姿はいまだに町の人たちの語りぐさになっているの。シダリアは母親のその衣装を思い出の品として今も大切にしているわ。

ガボ シダリアには恋人がいなかったんだ。つまり、彼女は独身で処女のまま母親になっているわけだ。

ソコーロ それがたぶんべリンダに対する態度となって現れていると思います。シダリアは自分が不幸な境遇で暮らすようになったのは妹のせいだと考えているんです。妹が生まれてからは不幸続きで、しかも二人の母親は亡くなっています。一かが落ち目になったせいで、シダリアはつらい思いをしますが、両親の愛情と思い出があったので、あまり苦にしていなかったんです。それが今になって自分の屈折した思いをべリンダにぶつけるようになったんです。妹をひどく嫌っていたんですが、その一方で残された人生を妹の面倒を見るために使わなければならないとも考えています。というのも、べリンダにはおかしなところがあるんです。たとえば、まったく口をきかないんです。聾啞者ではなくなくて、孤児として育ち、まわりの雰囲気がとげとげしかったせいで、それがトラウマになって……口をきかなくなったんです。おそらく、彼女は口をきこうという気持ちになれないんでしょうね。

ガボ 言葉が出てこないんだな……ところで、映画はいつはじまるんだ。

ソコーロ もう少し待ってください。ふたつ言い忘れていたことがあるんです。ひとつは、二人の住んでいる家が一族の古い屋敷だということ、もうひとつはシダリアが学校の先生をしていて、そのお給料で一家を支えているということです。

ビクトリア べリンダもやはり独身で欲求不満なの?

ソコーロ 彼女は家から外に出たことがないの。家ではお手伝い代わりに掃除をしたり、料理を作ったり、部屋を片づけたり、庭の手入れをしているの。そうそう、もうひとつ大切なことを忘れていたわ。べリンダは歌が好きで、ひとりの時は歌をうたうの。それで、彼女が聾啞者でないことがわかるし、近所の人もそのことを知っているの。だけど、シダリアは彼女の歌を一度も聴いたことがないのよ。べリンダは眠っている時にうまり声をあげたり、何かつぶやいたりするけど、シダリアが耳にしたのはそれだけなの。シダリアにしてみれば、妹はいつも人をいらいらさせる上に、図々しく自分の意志を押し通すことしか考えていない、陰険な利己主義者としか映らないの。けれども、その一方で妹をかわいそうに思ってもいる。シダリアはときどき罪の意識に駆られて、愛情にあふれたやさしい態度で妹に接しようとすることもあるの。

グロリア 愛情が入り交じっているのね。

ソコーロ べリンダは分裂症寸前の状態なの。シダリアのほうは学校の先生をしているおかげで、外の世界との接点があるの。彼女は信心深くて、ミサにも出かけるし、告解もするわ……それにひきかえ、べリンダは完全な沈黙、より正確には妄想、幻想の世界に生きている。そして、彼女の幻想の中心にあるのが母親の残したあの衣装なのよ。べリンダは異常なまでにあの衣装にこだわっているわ。

ガボ シダリアはそのことを知っているんだな?

ソコーロ 衣装はほかの装身具と一緒にシダリアの部屋に大切にしまってあるんです。きちんと畳んで大きな櫃(ひつ)に入れ、虫がつかないようナフタリンと一緒に……。べリンダがその衣装をつけて鏡の前でコケティッシュなポーズをとったり、部屋の中を歩きながらパラソルをかわいくクルクル回しているところを、シダリアは何度か見かけたことがあるんです。そういう時、シダリアはひどく腹を立てて妹を叱りつけ、むりやり衣装を脱がせると、二度とこんなことをすると許しませんよと言って、その衣装を櫃の中にしまうんです。だけど、一方でそんな妹をかわいそうに思っています。べリンダをどうしても許すことのできない理由は別のところにあるんです。ある日、妹があの衣装を身につけて自慰行為にふけっているところを見つけたんです。シダリアは頭に血がのぼり、危うく失神しそうになります。

グロリア べリンダはその衣装を着ると興奮するのね。

ソコーロ 性的に目覚めるのね。ある理由、要するに胸ぐりの大きく開いた華やかな衣装だから、それを身につけると、とたんに自分の体に触り、愛撫したくなるの。シダリアは心配して司祭さんに相談する。すると、薬剤師のところへ行って、興奮を鎮めるような薬を調合してもらいなさい、わたしに忠告できるのはそれだけですという返事がかえってくる。薬剤師は飲み薬を調合したあと、一定量以上を与えないようくれぐれも注意してくださいと言う。シダリアは何とかしてその薬を飲ませようとするけど、べリンダはあれを飲むと頭がぼうっとして眠くなると言って、飲もうとしない。シダリアがいちばん恐れていたことがふたたび起こる。ある日、学校から戻ってみると、妹がまたあの衣装をまとって自慰行為にふけっている現場を見つける。頭に血がのぼったシダリアはべリンダに飛びかかると、衣装をむりやり脱がそうとして力まかせに引っ張りはじめる。当然布地が裂けて、あちこちに破れ目ができる。あの衣装、つまり母親のたったひとつの思い出の品がずたずたに裂けてしまったのを見て、シダリアは失神する。床に倒れ、てんかんの発作を起こしたように身をよじり、おかしな具合にけいれんする。べリンダはうろたえて台所に駆け込むと、棚から薬剤師が調合した薬をとって部屋に引き返す。そして、何とか発作を鎮めようとして薬を大量に飲ませるが、与えすぎたせいで取り返しのつかないことになる。シダリアは危篤状態に陥り、二、三日後に亡くなる。姉を助けようとした時に、べリンダが何か話しかける可能性も考えられるわね。だけど、シダリアの葬儀には出席しないの。その日の午後、近所の人たちは異様な光景を目にする。べリンダが家中のドアと窓を全部開け放ち、精一杯おめかしして外へ出ていく。あちこちつくろったせいでつぎはぎだらけになった母親の衣装を身につけ、ぼろぼろになったパラソルをさし、厚化粧をし、ヒールの高い靴にストッキングをはいているの。わたしとしてはそのイメージまで話をもっていきたかったの。あの町に狂女が生まれたのはそういういきさつがあったからなのよ。

ガボ 起承転結のあるプロットがすでにできているんだな。後はそれを脚色して三十分の枠内に収めるだけだ。しかし、話が話だけに一筋縄ではいきそうもないな。


同感です。すでにイメージが固まっているだけに、余計面倒なことになりそうな予感がします。

デニス べリンダが自慰行為をしているところですけど、テレビで流せるんですか?

ガボ それはこちらが心配することじゃない。脚本を書く人間は自分がいちばんいいと思うストーリーを展開させればいいんだ。慣習主義や道徳規範を相手に戦うのはそのあとだよ。とにかく自分がこうすべきだと思ったことをやらなくてはいけない。制作に関しても同じことが言えるんだ。ソコーロ、ストーリーについて聞きたいんだが、シダリアは不感症なのかい?

ソコーロ ええ、信仰心が厚く、とても慎み深くて、いつも喪服を着ています……。

ガボ 逆にべリンダは生気にあふれているんだ。薬を飲ませても、効かないんだからな。

ソコーロ たぶんそのせいで飲もうとしないんだと思います。

ガボ ふだんの生活はどうなんだい? 毎日シャワーを浴び、フォークを使って食べているの?

ソコーロ 食事の時使うのはスプーンだけで、柄のところをこんな風に持って食べるんです。シダリアは以前からテーブルマナーやナイフとフォークの使い方を教えようとしたんですけど、うまくいかなかったんです。べリンダは勉強も嫌いで、姉が読み書きを教えようとすると、逃げ回るんです。べリンダが本当に好きなのは花だけです。ですから、庭に出て誰もいないとわかると、歌をうたうんです。


これだけ詳細かつ具体的にイメージできているとは驚きですね。こうあるべきなのでしょうが、口で言うほど簡単なことではありません。

ガボ 人物がどういう外見をしているかというのも大切なことだ。人物のイメージが浮かばないと、いい考えも生まれてこないからな。

ソコーロ
 べリンダはいわゆる身ぎれいなタイプじゃありません。たとえば、母親の衣装を身につけた時に髪に櫛を入れるくらいのものなんです。

ガボ その女性が突然狂女になって通りに飛び出し、止めどなくしゃべりはじめ、誰も止めることができない、この映画の結末はすごくいいものになりそうだな。狂気のおかげで、彼女は鬱積したものすべてを言葉にして吐き出すわけだ。

ソコーロ シダリアは通常の形で妹と意思を疎通することはできないんです。妹といる時は、シダリアがひとりでしゃべり、ひとりで返事をします。

ガボ さて、困ったな。ストーリー全体を動かしているものが隠れていて見えないんだ。それが見たいんだけどね。

ソコーロ 二人の日常生活を通してそうしたものが見える、というか推測できるようにしたいんです。たとえば、テーブルについている時に、シダリアが「そこの塩入れを取ってくれる」と言い、その後、彼女自身が「ええ、いいですわ、お姉さま」と答えるとか、「べリンダ、あなたはサラダが好きだったわね?」「もちろん好きですわ、お姉さま」といったようにひとりで受けこたえをするんです。できれば、いくぶん突っかかるような口調のモノローグを通して二人の関係を表したいと思っています。そして、その間べリンダは一切口をきかないんです。

ガボ すると、本当に頭がおかしいのはシダリアということになるな。

レイナルド 家には動産がほとんどないんです。たぶんシダリアが売ってしまったんでしょう。女教員の給料ではとてもやっていけませんからね。絵も手放してしまったので、その跡が壁にくっきり残っています。

ソコーロ べリンダが部屋にいるシーンが最初のシーンなんです。母親の衣装をつけ、鏡の前で髪の手入れをしています。外で物音がしたので、べリンダはシダリアに見つかってはいけないと思ってあわてて衣装をしまいます。シダリアが屋敷に入り、庭の鉄格子の扉を閉め、広間を抜けてべリンダの部屋をのぞきます。彼女は何とか衣装をしまい、何事もなかったような顔をします。

ガボ 最初のシークエンスで観客の心をぐっとつかみ、同時にそこで一呼吸入れる。そのあいだに言いたいことを語れるように態勢を整える必要があるだろう。インパクトの強いシーン、何がいいかな、たとえばべリンダが強制服を着せられているところなんかどうだろう? それで時間稼ぎをするんだ。

ソコーロ そうなると、ストーリーの展開がいっそう早くなりませんか。

ガボ
 ひとりの女性が家の中に入っていく、そのシーンから映画をはじめたらどうだろう。その女性が誰なのかわからない。ただ、学校から帰るところで、生徒から「さようなら、先生……」と言われれば、最初から先生だということがわかる。で、財布から鍵を取り出し、ごく自然な態度で家の中に入っていけば、そこが彼女の家だとわかるだろう。家の中でその女性はある部屋をのぞく。すると、そこに彼女より若い別の女性がいて、服装はそうだな、なんでも好きなのでいいだろう。鏡の前でしなを作っている。服が破れているが、たぶん乱暴に扱ったせいだろう。外から戻ってきた女性は怒りに駆られて、もうひとりの女性をののしり、平手打ちを食わせ、むりやり服を着替えさせる。その後、ロープで両手を縛ると、ベッドの脚、あるいは壁に取りつけてあるハンモック用の輪っかにそのロープを結ぶ。そういうのがわたしの言うハードなシーンなんだ。これで観客はいっそう興味をかき立てられ、次々に疑問が生まれてくるはずだよ。

ソコーロ いよいよ、仕事がはじまるわけですね。

ガボ そんなにヤワな仕事じゃない。繰り返しになるけど、なかなかやっかいなんだ。というのも、語り手も対話の相手もいないし、言葉もほとんど使わないでそうした質問に答えていかなければならないんだからね。外から戻ってきた女性はかなり長い時間独り言を言うだけで、誰ともしゃべらないんだろう。そのあと司祭さんと話をするわけだけど、手持ちの材料はそれだけなんだ。まあ、最初のシーンから最後のシーンまであまり時間的余裕がないので、あちこち横道に逸れているわけにはいかないのがせめてもの救いだよ。つまり、すぐに本題に入らなければならないんだ。二十五分でそれまでの経緯を説明し、姉妹の関係を浮き彫りにし、人物の性格を描かなければならない……最初のシークエンスをインパクトのあるものにしなければならないといったのはどういう意味かわかるかい? それをうまく生かしたいからなんだ。

ソコーロ さっき衣装が破れているとおっしゃいましたけど、べリンダは最初のところで衣装を破ってしまうんですか?

ガボ 最初じゃだめだということは、二度目があるってことなのかい?

ソコーロ もちろんです。その時にシダリアが思わず服を引き裂いてしまうんです。

レイナルド シダリアがはじめてべリンダを見る、むろん映画の中でだけど、その時すでに母親の衣装をつけているというのは面白いですね。

ソコーロ 実際はそれまでに何度も同じようなことがあったのよ。

ガボ べリンダは鏡の前に立って歌をうたっている。すると、外の庭にある鉄格子の扉が開く音が聞えたので、急に歌をやめる。それだけで、彼女は口をきけないのではなく、口をきこうとしないのだということがわかるはずだ。

ロベルト パラレル・モンタージュを用いて、シダリアが学校から帰るところとべリンダが例の衣装をつけるところを撮ったらどうでしょう。べリンダが衣装を着替えた時に、シダリアが庭の鉄格子のところに着く。その時に、新婦のような衣装をつけているベリンダの弱々しさとシダリアの厳しさを、二人の衣装と歩き方で出せるんじゃないですか。

ガボ 技巧的な問題が気になるんだけどな。べリンダは口がきけないんだろう。彼女を通してそのことをどう本当らしく表現するかが問題なんだ。シダリアは妹が口がきけないということを知っている。しかし、それを演技と映像を通して伝えるのはけずかしいぞ。

ロベルト シダリアは妹にしゃべらせるどころか、声を出させることもできないんです。怒りに駆られて、シダリアは妹を叩き、足蹴にします。それでもベリンダは悲鳴もあげない。せいぜいうめき声を立てるくらいです……観客はそれを見て、「彼女は口がきけないんだ」と思うでしょう。

ソコーロ だけど、わたしたちは彼女があの衣装を着ている時に、歌をうたうのを聞いたわけでしょう。

ロベルト そこを変えようと提案しているんだ。

ガボ あんなに美しいシーンを変えるのかい?

ロベルト 美しいことは美しいんですが、インパクトがないんです。最初のところでしゃべることはもちろん、歌もうたわなければ、声も出さないという風にすると、観客は当然べリンダは「口がきけないんだ」と考えるでしょう。そのベリンダがある瞬間に突然歌をうたいはじめれば、あっと思うはずです……彼女は口がきけないんじゃなくて、そのふりをしているだけなんです。それを姉のいるところでやるんです。

ディスカッションが面白くなってきたところで次回につづきます。

物語の作り方 その24

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前回から随分間が空きましたが、再びガルシア=マルケスの『物語の作り方』を始めます。

七章・第二部「あいまいな恋」の続きです。

マノーロ 急に説明しろと言われてもむずかしいですね。エンリケはテレに対して性的な魅力を感じる……エンリケは彼女みたいに知的で魅力的な女性を何人も知っています。で、どうなるんでしょう?

ソコーロ 一目惚れというのはそう簡単に説明できるものじゃないのよ。それは心の問題、あるいは神秘的な化学反応なの……。

デニス わたしの言いたいのもそのことなの。相手の男性の欲望がどの程度のものかわからないのに、その欲望の対象になるのはばかげていると言いたいのよ。

ガボ 男にしても、自分の欲望がどの程度のものかわからないんだ。人は自分で思っているほど自分のことを知らないものだ。たぶんそのせいで、われわれは今動きがとれなくなっているんだ。必要な電圧を加えて、テレとエンリケを動かさないとな。

ソコーロ これはわたしの考えなんですけど、エンリケの最初の性体験は異性愛だったんです。たぶん結婚したことがあるんです。ある時に心に傷を受け、しかも本人はそれが治癒不可能だとは気づいていないんです。

ロベルト
 それに何か意味があるの?

ソコーロ 障害がひとつ消えるでしょう。エンリケにはそれまでに正常な異性愛の経験があって、今回が初めてじゃないの。

ガボ そうなると、時間的な処理がますますむずかしくなるな。

エリッド 最初の夜、エンリケはテレと正常な関係を結ぶんです。彼女に強く惹かれたせいで……。

これは『偽装の夫婦』の設定と同じですね。もちろん「アリ」だと思います。

デニス 最初から成功するの? だめ、それはだめよ。

エリッド そのあとに葛藤が生まれるの。というのもエンリケには男友達がいて、テレのせいで彼をあきらめきれないの。

デニス それだと、エンリケはバイセクシュアルだということになるんじゃないの?

エリッド 別にかまわないじゃない。テレはライバルとの競争で自分の旗色が悪いと見て、彼、つまり若い男性に似せて変装するの。

ガボ エンリケのようなタイプのホモの男性がああいう状況で、そのような行動をとるかどうかはわからないよ。欲望の対象が変わって、今度は女役になりたいから、異性愛でいこうと簡単に気持ちを切り替えられるんだろうか?

レイナルド ぼくは、エンリケが努力するんだけれどもうまくいかないという方にこだわりたいですね。最初の夜に失敗するわけですけど、そのショックが大きければ大きいほど、テレの変わり様が興味深いものになると思うんです。

エリッド 何度か試みるんだけど、だめなんでしょう? で、彼女はいったい何回それに耐えればいいの?

レイナルド 回数は関係ないんだ。ボレロでうたってるじゃないか。《二十回もだまされつづけたんだもの、一回くらい増えたってかまわない》ってね。


ブラボー、レイナルド! 相も変わらず見当違いでKYな発言だね(失笑)

ガボ ドラマの問題点がどこにあるかわかったよ。われわれは軽率にも視点を変えてしまったんだ。このストーリー全体はテレの視点から語られているのに、少し前からエンリケのまわりをぐるぐる回りはじめたんだ。はっきり言うと、ここで彼の視点を取り込んだら、なにもかも台無しだ。彼女の視点を崩してはいけないんだ。テレは、われわれもよくやる見立て違いをするんだけど、これは気にしなくていい。それよりも、どうしても避けなければならないのは、視点の変化、もしくはふたつの視点を同時に生かして仕事を進めようとすることだ。そうなると、話が込み入ってくる。それに時間も足りなくなる。このストーリーでイニシアティブをとるのはテレなんだ。エンリケのジレンマにはまりこんだら、抜け出せなくなるよ。

デニス いろいろな細部をうまく使えば、テレの感情的な変化やその前段階も出せるんじゃないですか。たとえば、彼女の部屋にはエンリケの写真と彼が舞台で演じた人物の写真がべたべた貼ってあるという風にすればどうでしょう?

ガボ
 最初の夜、テレはエンリケに家まで送ってもらう。彼女枷部屋に入ると、壁一面に写真が貼ってある、それでエンリケが以前から彼女のあこがれの俳優だということがわかるだろう。

ソコーロ 変身を逆にする、つまり最初からテレが男の子の姿で登場するようにしたらどうでしょう。彼女は現代的で、パンクで、ユニセックスな感じですから……。

ガボ そうなると、ストーリーが安っぽくなるだろうな。

セシリア テレがいい女優だという話は出ましたけど、彼女の想像力や模倣の能力についてはまだ話し合っていませんよね……彼女はエンリケとのロマンスを夢想し、彼を自分のものにするための手段をあれこれ考えている……彼女の空想のモデルは舞台からとってきたものだとしてもいいんですよね。

デニス その方向でいくと、最初のアイデアから大きく逸れるんじゃないかしら。

セシリア テレは役をもらって、エンリケとラブ・シーンを演じるんでしょう。そんな彼女が役作りのために勉強しはじめるのよ。相手役、といっても彼女の頭の中にはエンリケしかいないんだけど、その相手役の出方をあれこれ空想しているうちに、現実と想像の世界の壁がなくなってしまうの。

ガボ 話としては面白いけど、ストーリーの流れが変わってしまうな。テレが男装しないのなら、もう別のストーリーだ。その方向で進んでいけば、結局『ハムレット』になるだろうな。出来はそちらのほうがずっといいかもしれないけど、それだとワークショップの存在理由がなくなるよ。

デニス 今思いついたんですけど、細部、たとえば鏡なんかを通して変身させてみたらどうでしょう。

レイナルド おい、おい、まだ鏡の呪縛から解放されていないのかい。

ガボ 好きにしていいんだが、テレが最後まで戦いを続ける、つまり男に変身するまで戦い続けようと決心するのは、追いつめられていると感じた時だということははずしちゃだめだよ。

ロベルト しかし、そうなると最後が締めくくれなくなりますね。

ガボ だれも締めくくれるなんて言ってないよ。結末はないんだ。

ロベルト たしかにどんでん返しにはちがいないんですが、それだと何も表現したことにはなりませんね。

ガボ その通りだ。しかし、ほかに選択肢がないのなら、大向こう受けをねらうしかないだろう。

ロベルト ぼくとしては、男装したテレがエンリケの前を通るんですが、彼は気がつかないという方が好きですね。

ガボ しかし、それだと彼が気がついたらどうなるかという問題は残されるだろう。

レイナルド 最後のイメージは言語学者のよく言う、きわめて強い意味論的な負荷をもっているということですね。

ガボ 少し整理してみよう。テレが変身してバルに出かけていく。エンリケがそばを通りかかるが、彼女、というか今では男の子になっているので、彼と言うべきだが、その彼に目もくれない。ハンサムで魅力的な若者なんだけど、エンリケの好みじゃない。彼女が好かれていないのかというと、そんなことはない。つまり、彼はテレを女性として愛しているんだよ。

ソコーロ ストーリー全体を、エンリケが犠牲者を、つまり自分と共演する女優を相手にやるたちの悪い遊びと考えても面白いんじゃないかしら。エンリケはサド・マゾなの。自分にはできないか、もしくはその気がないとわかっているのに、彼女を愛そうとしているふりをする。で、さりげない口調で変身をほのめかす。相手役の女性は彼を喜ばせようとして変身するんだけど、そのプロセスの中で、役作りに求められている必要条件をなおざりにしてしまい、結局降板させられて、別の女優に取って代わられる……すると、エンリケは次の女優に触手を伸ばす。そこでサイクルが閉じられて、また一から同じことがはじまる。

グロリア すばらしいアイデアだけど、そうなるとテレではなく、エンリケのストーリーになってしまうんじゃない? わたしとしては、彼がバルへ行くと、彼女が今までとちがう服装で待っている。そんな彼女を見て、彼は不快そうに「なんてばかなことをしたんだ!」と叫ぶ、という風にしたらいいと思うんだけど。

ロベルト あるいは、エンリケがバルに着く。彼女はまだ来ていないなと思ってまわりを見回し、近くに座っている男の子がテレだと気づかずに、興味を示すというのはどうだろう?

ガボ エンリケがすぐにその男の子に近づいていったらどうなるんだい?

グロリア そばに行って少し話したら、テレだと気がつくんじゃないですか。

デニス エンリケが男の子に変装した彼女と親しくなったりしたら、教訓にならないわね。

ガボ テレが変装した場合、ふたつの可能性が考えられる。つまり、エンリケを手に入れるか、彼を失うかのふたつだ。前者の場合、ストーリーとしては扱いやすいが、何となく噓臭い感じがする。というのも、髪の毛を短くし、外見を少し変えただけで簡単に引っかかるんだから、エンリケというのはよほど軽率な人間なんだなということになってしまうからな。

ソコーロ あり得ることだと思いますけど。ホモの男性って、とても軽率じゃないですか。

ガボ さあ、それはどうかな。彼らは深く根を下ろしている道徳的な偏見や規範に対して不信感を抱いていて、たえず浴びせられる嘲笑に立ち向かい、なんとしても自分たちの生存権を守ろうとしている。何のためにそんなことをしているのかと言えば、ホモの男性、少なくとも真の友情、真の仲間意識がどのようなものかも知らずに経験を積み重ねているあのあわれな人間たちの人生には大きな葛藤があると思うんだ……だから、そういう人間を軽率だとか、不真面目だと言えないんじゃないかな。そういうことに耐えるためには、性格的に強くなければだめなんだ。もっとも今では社会の中に彼らの居場所が生まれつつあるから、以前ほどでもないかもしれないけど、いずれにしても……。


基本的にリベラルな思考の持ち主であるガボにしてこの発言ですから、やはり時代を感じないわけにはいきません(現在から約20年前ですらこうだったんですからね)。

レイナルド 二人が最後に出会うバルのシーンに戻っていいですか。店の中は客でいっぱいで、テレも若い男のような顔をしてテーブルに座っています。彼女は別に苦労することもなく店の雰囲気にしけ込んでいます。エンリケが彼女の前を通り過ぎるんですが、彼女の方を見ようとしません。正確に言うと、彼女だとわからないんです。彼は近くのテーブルに腰をおろして、彼女が来るのを待っています。テレは席を立つと、まっすぐ彼の方に向かっていき、相手を捜している若い男の子がよくやるようにテーブルの上に両手をつき、ほほえみを浮かべながら「やあ!」と声をかけます。エンリケはそんな彼女を見て、呆気にとられます。そのあと、急に激しい怒りに駆られて、彼女の腕をつかむとバルの外に連れ出して、ののしります。たぶん彼女が身につけているベルト、鎖、なんでもいいんですが、装身具を奪い取ると、地面に投げつけて踏みにじります……。そこまではいくんですが、あとが続かないんです。

ガボ このあたりで少し細部を整理してみよう。さっきテレは男に変装するという話が出たが、あれは正解じゃない。テレは能動的なホモに変装するんだ。このふたつは混同してはいけない。オカマ・バーに通う客もオカマなんだ。エンリケは若い男に変身したテレを肉体的に受け入れないんだが、女としてなら受け入れるんだろうか? 物語として考えると、やはり結末が必要なんだが、それがまだ出ていないんだ。

マルコス ドラマとして締めくくれなくても、映像的に処理できるんじゃないですか……。

ガボ ちょっと待ってくれ。今あることを思いついたんだ。エンリケとテレがリハーサルをしている芝居の台本があっただろう、あれを忘れていた。最初に二人が出会うきっかけとして使っただけで……あの台本をストーリーの中に組み込めばいいんだ。結末の鍵になるものが二人の対話のどこかに隠されているという風にすればいい。

ロベルト ということは、ドラマのテキストを通して、つまり芸術的なレベルにおいてしか二人は意思を疎通することができないわけですか。

エリッド いろいろな障害があって、自分の本当の人格がつかめずにいる二人の人物のドラマにしてもいいんじゃないですか。

ガボ いいかい、エンリケはバルに腰をおろしてテレが来るのを待っている。彼女は男の服装でやって来ると、近くの席に座る。エンリケは彼女を見てようやく気がつく。そして、何か、つまりあのドラマの中で彼が口にしたせりふを言い、そのせりふがわれわれの耳にも入ってくる。その言葉に対して彼女が答えるが、予測とはちがう返事がかえってくる。彼女はそこからゲームをはじめるんだが、自分なりのやり方を通す。そうして、二人の葛藤が明らかになるような対話がはじまるんだ。

マノーロ 最初は二人がリハーサルを繰り返す中で、何度も愛し合うシーンが出てくるという話でしたね。

ガボ そのシーンを思い浮かべて、あとで使えるような対話を考える必要があるんだ。

ロベルト 台本では主人公が自分たちの愛を成就させるんですが、現実の中ではエンリケとテレが……。

ガボ 逆でもいいんだ。ドラマの中で二人は結ばれないが、現実の世界ではうまく結ばれるんだ。

デニス 死のシーンの可能性も考えたんですけど。

レイナルド 死のシーンで終わるの? それは無理だよ。それじゃあ、『ロミオとジュリエット』じゃないか。

ガボ 対話を反復させ、それを修正するという形式には、詩的な意味で非常に大きな潜在力が具わっているような気がするな。映画は本当の詩と変わりない終わり方をするはずだよ。われわれが二、三度耳にして聞き覚えているせりふをエンリケが口にすると、彼女はどこかで聞いたような気がするけれども、それとはちがう返事をする……そんな風にして対話がつづき、ストーリーは自分の道を歩みはじめる……それがたぶんほかの誰もが、われわれも彼らも疑問を抱くことのなかった道なんだろう。

ソコーロ すると、二人の愛は挫折しないんですね。ああ、よかった。

ガボ 彼らは自分たちの真実に適合させるために対話を手直ししはじめるが、とたんにわれわれは二人が社会慣習に背を向けていることに気がつく。もっと深い何かが彼らを結びつけているんだ。それまでの愛の真実と思われたもの、つまり舞台の上で演じられていた愛の真実のことなんだが、それが実は二人の間に立ちはだかる障害でしかないということが明らかになるんだ。

ロベルト そうすれば、観客は最後に二人は幸せになるという幻想を抱くことになりますが、一方そのことによって葛藤が解消するわけでもないことが伝わりますね。

ビクトリア デニス、あなたはさっき結末のところでエンリケが別の女性と一緒に登場するようにしたいと言ったでしょう。その女性がテレだとまずいの? 変装をやめて、女として堂々と登場したらどうかしら。

レイナルド 女としてかい? どんな風にやるんだい?

ガボ 舞台で演じるドラマがエンリケにとってどれほどドラマティックなものなのかわれわれにはわからないんだが、それがいちばんの問題だと思うんだ。行為が「できる」のか、「できない」のかというのは、それほど重要な問題ではないような気がするんだ。

ロベルト それだと、何となくコミカルな感じがしますね。

デニス できればコメディーにしたいんですけど。

ガボ なんだって! どうしてもっと早く言わないんだ。

グロリア まあ、いいじゃないですか……本質的なものを変えないで、そんなに簡単にジャンルを変えていいんですか?

ガボ ストーリーを作って提案した本人、デニスがそう言っているんだ。

レイナルド ぼくはてっきり悲劇になるものだと思っていたんですけどね。

ガボ コメディーにするのなら、結末はどうとでもなるよ。たとえば、男装したテレと女装したエンリケの登場するシーンで決まりだ。そのあと二人は死ぬまで仲良く暮らしました、めでたし、めでたしだ。

ソコーロ 変身するのはテレビだけじゃないので、ストーリーとしてはきれいに収まりますね。

ガボ こういうのはどうだろう。目をみはるほど美しい女に変身したエンリケが登場する。と、若いハンサム・ボーイの中でもひときわ目を引く男性に変装したテレが身振りで鏡の大広間でダンスをしようとエンリケを誘う……すばらしい結末だ。いい映画になるんだったら、どこをどう変えたっていいよ。

ロベルト 何も変える必要はありませんよ……コメディーとしてのこの映画の出だしから結末までがありありと目に浮かびます。

ガボ ただ、全体の雰囲気だけは変えたほうがいだろうな。たとえば、二人がバルで出会うシーンなんかがそうだ。テレは髪を短く切り、男装してあのバルへ出かけていく。腰をかけてエンリケを待っていると、女装したエンリケが現れる。むろんすばらしい美女に変身している。というのも、エンリケは名優だから、どんな人間にも変われるんだ。そうだな、手近な例を挙げると、『トッツィー』[シドニー・ポラック監督。一九八二。アメリカ映画]のダスティン・ホフマンみたいなものだ……で、エンリケとテレが向かい合うが、互いに相手が誰だかわからない……と、突然……。




デニス アナグノリシス[正体がわかる]というわけですね。

エリッド テレをレズビアンにすれば、ぴったり符合するんじゃないですか。

ガボ おい、おい、せっかくここまで苦労して作り上げてきた映画をぶちこわしにしないでくれよ。

エリッド レズビアンのテレも彼に知られないようにこっそりあのバルに通っているんです……で、最後に二人の間に子供が生まれる。むろん、彼女が産んだんですけど。

グロリア 冗談はそれくらいにして、今までの話だとエンリケはホモで、しかも頭のおかしい女ということになりますね。

ガボ 別にいいんじゃないか。彼は変装したり、姿、格好を変えて遊ぶのが好きなんだ……昔の貴婦人の衣装をつけてホモのバルへ行くこともあれば、三銃士に扮装することもある……テレと出会った夜は特に凝った衣装をつけている、そうだな、『ドーニャ・バルバラ』[ベネズエラの作家ロムロ・ガリェゴスの小説を映画化した作品]のマリア・フェクリス[メキシコの女優]か、『サンセット大通り』[ビリー・ワイルダー監督。一九五〇。アメリカ映画]のグロリア・スワンソンみたいにね。



"デニス ああ、気持ちが悪い。

レイナルド 彼らのドラマが何かわかりましたよ。シェイクスピアの『夏の夜の夢』でしょう。テレがタイターニアで、エンリケはロバに変身した男で、彼女としゃべるんです。そこには変身、エロティックな遊びといったようにすべての要素がそろっています……。

ガボ コメディーという単語が魔法の杖になったようだな。最後のシーン、ダンスのシーンはすばらしいものになるだろう。二人をベッド・インさせる必要はない。彼ら、つまり男女が入れ替わった完璧なカップルがダンスするところを見るだけで、何もかもわかるはずだ。二人は今それぞれ別の人間になっている。つまり、彼らはアンドロギュノスで、ようやく 自らの半身に出会うことができたんだ。キューピッドの矢とはそれなんだ。二人がはじめて会った時から惹かれ合うものを感じ、互いに相手を求め合ったのはそのせいなんだが、出会いの場所を間違えていたんだ。

レイナルド
 テレは演技のテストを受けるんですが、その時の態度にどこか醒めたところがあって、エンリケはそれを敏感に察知します。二人は双子座の運命に支配されているんです。


おやおや、レイナルドが俄然張り切っていますね。何か変な物でも食べたんでしょうか?

ガボ 性のちがいが二人を分かつ障壁になっているんだが、男女が入れ替わったとたんにその障壁がなくなるんだ。

ソコーロ それを観客にどう伝えるんです?

ガボ それはわからないよ。しかし、エンリケが次から次へと変身していく、それをどんな風に絵にしていくかというのがわれわれの仕事なんだ。エンリケはバルに足繫く通うんだけど、行くたびに別人になっている。いかにも役者らしく、カーニバル的なんだな。正体を隠そうとしているんじゃない。別の人間になるんだよ。口ひげと前頭部のかつらをつける時もあれば、髪の毛をヴァレンティーノ風にかっちり固める時もある。メガネをかけているかと思えば、あごひげをつけることもある……いかにも変装していますという感じなんだが、それでけっこううまくいっているんだ。

エリッド バルにいる時のエンリケは、テレがリハーサルの時につけている衣装をまとっている、あるいはその逆にしてもいいんじゃないですか。

ガボ しかし、リハーサルの時はセーター姿だろう。

エリッド 全体でリハーサルをする時はちがうんです。

ガボ いずれにしても、どういう作品かわかっているほうがいいだろな。アンドロギュノスは本来の自分を取り戻すためにつねに自らの半身を探しているけど、そのアンドロギュノスをテーマにしたようなドラマになればいいんだがな。


ちょいとデニスの沈黙が気になりますね。もはや当初の彼女の物語とは全然別物になった感がありますからね。

ロベルト それはたとえばベケットの作品のような現代劇であってもいいんでしょう。登場人物たちが止めどなくしゃべり続ける。けれども、結局何も言っていない。あるいは、ほとんど口をきかないか、必要なことしか言わないけれども、ちゃんと意思を疎通し合っているといったのがありますね。

レイナルド イヨネスコ[一九一二-九四。フランスの劇作家]の『禿の女歌手』でもいいんだ。

デニス わたしはベケットのほうがいいわ。ある人物がこわれたレコードみたいに同じことを果てしなく繰り返ししゃべるというのがあるでしょう。

ロベルト あれはつらいものがあるね。

ガボ 役者であるエンリケとテレサもそのことを話題にするけれども、奇妙なことに結果的には自分たちにもよくわからないことを口にしているんだ。で、自分たちがオウムにでもなったような気持ちにおそわれるんだ。

デニス 彼らが舞台にかけるドラマはそういうのであってもいいでしょうけど、女優のテストには向かないでしょう。テストにはやはりロマンティックな芝居を使うと思うんですけど、そこで二人が愛し合うシーンを出したらどうでしょう。

ロベルト
 テストの時にいろいろな質問が出る。その時にテレがばかげているとも、機知に富んでいるともつかない返答をする。エンリケが「それはどういう意味ですか?」と尋ねると、彼女は「わかりません」と答える。すると、彼は笑いながら「わかりました」と答える。

ガボ その「わかりました」というのは、わからないことがわかったということだね。その遊びを最後のバルのシーンで使ってみるか。二人はばかげたことを言い合うが、実を言うとちゃんとわかっているんだ。どうだい、デニス、この線で進めるかい、それともやめてしまう?

デニス 少し考えさせてください。

ガボ 本質的なものは何ひとつ犠牲にしなくていいはずだよ。ストーリーはすっきりしているし、明るく楽しくて、後味も悪くないコメディーになるよ。ばかばかしいと言えばそれまでだけど、意味のあるお話だ。それに、これはわたしの考えだけど、ドラマとしても価値があり、モラルに反してもいないし、映像的にも楽しめるというメリットもあるし、これ以上は望めないよ。


果たしてそうでしょうか? ボクがデニスの立場だとしたら承服しかねますけど……。

つづきます。

吉田知子という不思議びと 番外編

Literature


庄司肇さんの『吉田知子論』を開くことによって、久しぶりに吉田さんの著作に触れることになりました。庄司さんとは違うスタンスでボクも吉田さんの作品を愛読してきました。

で、これまた久しぶりに何冊かの著作を読み返してみたんですよね。

結果、やはり独特の感性に改めて惹かれることになりました。まさに「不思議びと」です、吉田さんは。ヒントもいくつか戴いたような気がしています。

吉田さんって、村上春樹さんのように、御自作に他者の解説を頼んだり、自らあとがきを書くなんてことが殆どない人なんですが、珍しく『風のゆくえ』には、あとがきを寄せていましたので、今回はそれを丸っと紹介します。

人間の背の高さは、だいたい最初から決まっています。いろいろ器具を使ったり、せっせと背の高くなる体操をしたりしても、せいぜい二センチも伸びればいい方でしょう。
そういうものに比較すると、寿命、健康、顔だちなどは心がけでかなり変わると考えられています。自分の学業、仕事ぶり、家事などは、もう百パーセントその人の努力次第だ、と思われています。努力すること、頑張ることは誰でもできることだということになっているから、人はすぐ他人に「頑張って」といいます。
しかし、これにも上手下手があって、当人がいくら頑張っていてもそうは見えないことがあります。どうしても努力できない人もいます。これは頭のよしあしにも健康にも無関係で、むしろ才能のようなものでしょう。「努力する才能」「頑張る才能」です。
「幸福」についても同じことが言えます。つまり、幸福になるのが上手な人と下手な人がいるのです。幸福になるための技術があるかどうかということです。
ある時、知人が、
「ああ、僕は幸福になりたいなあ」
と言ったので私はびっくりしました。彼は一流大学を出て、いい家のお嬢さんを妻にし、子供も三人いて公私とも何不足ないように見えていましたから。
たぶん、彼は幸福の才能に乏しいのではないでしょうか。この物語の女性もそうでした。
「幸福になる才能」のある人は、幸福などという言葉を意識せずに暮らしているものなのです。たとえば、あなたのように。

半ば放り出していたこの小説が、日の目を見ることになったのは読売新聞社の大野周子さんのお蔭です。どうもありとうございました。
平成五年夏                  吉田知子


とありますから、丁度二回り前の年に当たります。

考えてみれば吉田さんは常に「幸福」のことを考えておられたようですね。つまり、より意識的に暮らしていたことになります。翻って自分は……なんてことを思うと、どうにも心許ない思いがします。

それだけ、作品を書き上げるためには、常に「何か」を意識すべきなのだということでしょうね。心しましょう。

『風のゆくえ』の帯には、こんな文章が刻まれています。

幸福を追い求める結婚五年目の夫婦に襲いかかる危機。隣家の殺人事件、夫の蒸発、川で出会う不思議な男を求める不倫願望。次々に起こる奇怪な日常生活の中で1人もがく妻の心情を巧みに描く長編現代小説。

帯の背にはとどめのように「幸福とは何か」という惹句が記されています。でも、読後感は決して「そうなんだよな」という気持ちを齎してはくれません。これもまた吉田さん一流の仕掛けなのでしょうか?

とにかく、この著作に限らず吉田さん作品は一読をお勧めします。

吉田知子という不思議びと その43(終章)

Literature



さて……庄司肇さんの『吉田知子論』も、いよいよ最後の章になりました。
題して「結びとして」です。

ぼくは長い時間をかけて吉田知子の作品を読み、気ままに考え、勝手なことを書きつづけてきた。彼女の何に魅せられたかということは、これだけ入れこんでみても、完全に分かったというわけではない。手堅く従来の小説作法にのっとった小説を書く一方で、ぼくの理解をこえる破れた作品をも書くことのできる吉田知子に、漠然と興味をひかれたのがきっかけであることは、確かに間違いないのだが、小説は必ずそういう独自の型をもたなければならないと、ぼくは考えているわけでもない。ぼくは、むしろ正攻法が好きだ。平凡なことを、正面から描いてゆくことを好む。夢とか幻想を描くのが新しい小説だと思っているわけでもない。ただ夢や幻想、異常感覚などをふくめて、また、ぼくたちが気づいていないなにか、人間にあるすべてをふくめて、文章のなかにとりこむのが、これかせの小説の道をひらくものだと、信じているだけのことである。
これまで、夢と幻想、空想とかは、承知していて見落としたか、あるいは小説の領域ではないと排除してきたものだろうから、ある意味では、作家たちは人間に正対しないで書いてきたというだけのことで、逆に言えば、小説を書くというくらいの行為のなかでさえ人間は、夢を見るというか、ある一面、ある方向にしか視線をむけたがらない生物であるというくらいのことであろう。


ほんとにここに至っても尚、変わらず偏向した持論を展開するんですね。この断言には、何の具体的根拠もありません。名だたる作家たちが、それらのことをモチーフにしてきた事実が庄司さんの持論を完全に否定していますよね。

吉田知子の仕事は、現実と夢幻とのあわいを、微妙に揺れ動きながら、飛行する方法をとっている。そのあたりの機微を勉強させてもらうために、ぼくはこの文章をつづってきた。吉田知子自身が、自分と対象とのあいだに〈私〉とでもいうべきもうひとりの私を置くことを、自分の心がけとして述べているようにぼくは読んだ。簡単なようだが、そのことを成し遂げるのは、たいへんな作業であって、このことは、本気で小説を書いているひとには、すぐに解ってもらえることだ。
もう一つの問題は、私小説のことである。カフカの「変身」でさえぼくは、一種の私小説だと思っている。結核にかかったみじめな自分こそ、巨大な甲虫になってしまったグレゴール・ザムザであり、虫の胸になげこまれる腐ったリンゴは、むしばまれた肺にあいた大きな空洞のイメージだろう。私から出発しない小説なんて意味がないし、他人に感動をよびさまさせることなど、できるはずがない。
新しい私小説を考えなければならないというのが、いまのぼくの深い思いであり、そのためには、私小説をねじ曲げて来た先輩たちの足跡を訂正し、また消去しなければならないだろう。
この文章も、あくなき私小説的私論であって、吉田知子にとっては迷惑この上もない代物かも知れないが、文章を書くということの報いは、このようなものだと承知して、苦笑しつつも見逃してくれるに違いない。つまり、これでも大いなる声援を送っているつもりなのだ。
吉田知子は平均寿命の長い女性だし、それにスポーツで肉体を鍛えているそうだから、まだまだ長生きして、これまでの何倍かの仕事をするだろうし、絶え間なく変身を繰り返すであろう。この文章は、若い時代の、ほんのひとつまみの面影をすくい取ったにすぎないと見捨てられることだろう。そうなることを、こころから期待している。
されば、まぼろしの野をゆく色浅黒き美少女よ、ひたむきに走りつづけよ。そしてやがて夢幻の大空高く羽ばたけよかし。これが感傷的な老人であるぼくの、いつわりのない今の感懐である。
(平成六年四月十七日正午擱筆)


本書はこれで終わりです。

何だかんだボクも文句を言ってきましたが、素直に庄司さんの労をねぎらいたいと思います。

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コウです。プロフィールの画像が詐欺ではないかとの噂がありますが(笑)、ン十年前はこんなでしたってば! と言い張っちゃう^^
せっかく、このブログにいらっしゃったのですから、どうぞごゆるりとお過ごしください^^

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