レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その71

Literature


「焔――文学と影響について」の続きです。

これから、わたしの人生に影響を及ぼした二人の人物について、少し述べようと思う。一人はジョン・ガードナー。一九五八年秋に、わたしがチコ州立大学の初級創作クラスを履修したときの先生だった。わたしたち夫婦は、子どもを連れてワシントン州ヤキマからカリフォルニア州パラダイスというところに移ってきたばかりだった。チコから約十マイルほど上がった山の麓で、家が安く借りられる見込みがあった。もちろん、カリフォルニアに移り住むことは、わたしたちにとって大きな冒険だった(当時、そしてそれから後もずっと、わたしたちはいつも冒険に出ていた)。もちろん、わたしは家族の生活費を稼がねばならなかったが、それだけでなくパートタイムの学生として、大学に席を置くつもりでいた。
ガードナーはアイオワ大学を出たばかりであり、博士号を有し、その当時、未刊の小説と短編を数冊ほど抱えていた。わたしは、出版されていようといまいと、それまで小説を書いたことのある人間に出会ったことはなかった。第一日目の授業に、ガードナーはわたしたちを外に連れ出し、芝生の上に腰を下ろさせた。たぶん、学生は六、七人だったと思う。ガードナーは歩きながら、愛読している作家の名前を訊いてまわった。どんな名前が出たか、まったく思い出せないが、きっとどれ一つとして適切な名前はなかったにちがいない。ガードナーは、はっきりといった。きみたちは誰一人として、本物の作家になるための資質を備えていないように思える、と――見たところ、きみたちは誰一人として、作家になるために必要な「焔」を持っていないようだ、と。しかし、かれは続けて、わたしたちのためにできる限りのことはするつもりだといった。もっとも、かれがその成果をあまり期待していないのは、明らかだったが……。とはいえ、その口調には、旅の第一歩を踏み出したというニュアンスもないではなかったので、わたしたちは置いていかれないように、しっかり頑張ろうと思ったのである。
また別の授業のことも覚えている。発行部数の多い雑誌については、鼻であしらうだけで、一言も述べるつもりはないと、ガードナーはいった。いわゆる「リトル・マガジン」、つまり文芸季刊誌を山ほど持ってきて、それらの雑誌の作品を読むようにいった。かれにいわせると、それらの雑誌にはアメリカの小説のなかの最高傑作が、詩のすべてが載っているのだ。かれは、さらに続けていった。創作方法を教えるとともに、どの作家を読むべきかを教えるのも自分の任務である、と。かれは、驚くほど傲慢だった。わたしたちに、自分が読むに値すると考えた雑誌のリストを渡し、一緒に上から順に見ていき、一つひとつの雑誌にコメントを加えた。もちろん、これらの雑誌のことを耳にしたことがある者など、誰一人としていなかった。そのとき初めて、わたしもその存在を知ったのである。このときに、あるいは、ひょっとして何かの会のときだったかもしれないが、ガードナーは、生まれつきの作家もいれば、つくられる作家もいるといった(このことは真実だろうか。残念ながら、わたしには、未だに分からない。たぶん、創作科で教える作家で、その仕事に真剣に取り組んでいる者は誰でも、ある程度はこのことを信じなければならないだろう。音楽家や作曲家や視覚芸術家に見習いがあるならば、作家にあってもいいではないか)。わたしはそのとき何にでも感動しやすかったかもしれないし、それはいまでも変わらないが、ガードナーの一挙手一投足にまったく感銘してばかりいた。かれはわたしの習作を手に取り、わたしと一緒に読み返してくれた。自分が教えようとしていることを――いいたいことをいうのには、それにふさわしい、適切な言葉を使うことがどんなに大切であるかを――わたしに分からせようとして、繰り返し繰り返し語る、そんな辛抱強いガードナーの姿が、いまでも目に浮かぶ。曖昧な表現、ぼやけた表現は一つもあってはならない。曇りガラスのような散文ではだめだ。日常の言葉、正常な談話の言葉、わたしたちが互いに交わす言葉――こうしか、いいようがない――を使う重要性を、耳にたこができるほど教え込まれたのである。
最近、ニューヨーク州イサカで夕食をともにしたとき、かつてかれの研究室で行われた授業のことを話題に出してみた。ガードナーは、当時わたしに教えたことは全部まちがっていたと答えた。かれ曰く、「いろいろ、当時とは考えが変わったんだ」と。いまわたしに分かるのは、あの当時ガードナーがしてくれたアドバイスこそ、あのときの自分になくてはならないものだった、ということだけだ。ガードナーは素晴らしい先生だった。それがちょうどあの時代だったということが――親身にわたしのことを思ってくれ、腰を落ち着け、一緒に原稿を読み返してくれる先生に巡り会えたということが――最高に幸せだった。わたしには何か大事なことが、問題にすべき何かが起こっているように思えた。いいたいことだけを、正確にいうことが――つまり、「文学的な」表現や、「似面非」詩的言語を使わないということが――どれほど大切かを、ガードナーは手取り足取り教えてくれた。たとえば、“wing of a meadow lark ”(マキバドリの翼)と“meadow lark’s wing” (マキバドリの翼)といったような表現のちがいについて説明してくれた。ほら、音の響きと感じ方がちがわないだろうか。ほかにも、たとえば、“eatth”(地)という言葉と“ground”(土)という言葉についても、ガードナーにいわせれば、“ground”は“ground”で、その意味は「土」とか泥とか、そういった類のものでしかない。だが、“eatth”といえば、まったく別物になってしまう。この言葉には、また別の意味連鎖がついてくるのである。また、表現を収縮させるさせることも教えられた。いいたいことをどう表現したらいいか、またそうするために最小限の言葉をどう使ったらいいかを示してくれたのだ。短編小説では、すべてが重要であるということが分かったのも、ガードナーのお蔭である。コンマやピリオドをどこにつけるべきであるかも、また大切なことなのだ。あれやこれやのこと――週末にそこで執筆ができるようにと研究室の鍵を貸してくれたこと、わたしの厚かましい態度やいろいろな戯言に辛抱してくれたこと――に対して、わたしは感謝の気持ちを忘れないだろう。わたしは、確実にガードナーから影響を受けた。


それから十年後、わたしはまだ生きながらえていた。子どもたちとともに生きながらえて、時折、短編や詩を書いていた。折々の短編の一つを『エスクァイア』誌に送り、そうすることでしばらくのあいだ忘れてしまいたいと思った。しかし、その短編は、当時、小説部門の編集者だったゴードン・リッシュの手紙と一緒に、突き返されてきた。手紙には、作品を送り返すとだけ書いてあった。送り返すのを詫びるところはなかった。「いやいや」送り返すのではなく、ただ送り返すが、ほかの作品があれば、それも見たいとあった。そこで、わたしは手元にあった全作品を素早く送りつけたが、かれも同じくらい素早く送り返してきたのだった。ただし、今度は、親切な手紙がわたしの送りつけた作品にそえてあった。
あの頃、つまり一九七〇年代初頭、わたしは家族とともにパロアルトに住んでいた。わたしはまだ三十代前半であり、初めてホワイト・カラーの職――教科書会社の編集者だった――に就けたのだった。わたしたちは、裏手に古い車庫がある家に住んでいた。前の借家人が車庫に遊戯室をつくってあったので、わたしは毎晩夕食後にそこに出かけていき、執筆しようとした。そんな場合の方が多いのだが、筆が進まないときは、家のなかで絶えず繰りひろげられているように思える喧騒から解放されたことに感謝しつつ、そこにしばらく独りでじっとしていた。そのとき、わたしは“The Neighbors”(「隣人たち」)という短編を執筆中だった。ついに書き上げて、リッシュのもとに送ると、ほとんど即座に、返事の手紙が送られてきて、大いに気に入った旨が書かれていた。つまり、タイトルをただの“Neighbors”に変えようとしていること、その作品を雑誌に掲載するよう推薦していることなどが書かれていたのだ。その短編が買い取られ、実際に雑誌に載ったとき、すべてが変わるように思えた。『エスクァイア』誌は、すぐに別の短編を買い取り、それからは次つぎに載せてくれた。ちょうどその頃、ジェイムズ・ディッキーが詩部門の編集者に就任して、わたしの詩を掲載するために受理してくれた。しかし、ある意味では、事態は少しも好転していないように思えた。子どもたちが、ちょうどいま聞こえてくる競馬場の観客のように、一斉に騒ぎ立てていた。わたしを生きたまま喰い殺そうとしていたのだ。わたしの人生はすぐにまた進路変更を、それも急転回の変更を余儀なくされ、それから脇道にそれて、ぴたりと止まってしまった。後戻りも前進もできず、一歩も進めなくなってしまったのである。ちょうどそんな時期に、リッシュがいくつかの短編を集めて、マグロウ・ヒル社に持ち込んでくれ、出版の運びになった。そのあいだも、わたしはまだ脇道にそれたままで、どの方向にも進めないでいた。かつて焔があったにしても、そのときは、すでに消えてしまっていたのだった。
影響を受けた人たち。ジョン・ガードナーとゴードン・リッシュ。わたしはこの二人に、いわば償却できないほどの手形を渡してしまっている。だが、子どもたちについても同じである。我が子の影響こそが、主たる影響だった。かれらこそが、わたしの人生と文学を突き動かし、その形式に寄与した張本人なのだ。お分かりだろうが、未だわたしは子どもたちの影響下にある。ただ、いまでは晴れの日が比較的多くなり、静穏が似合うようになったが……。


この「焔」というエッセイが書かれたのは一九八二年のことです。恩師と慕ったジョン・ガードナーはこの秋交通事故で亡くなっていますし、その後最初の夫人と別居することにもなります(皮肉なことですが……)。そういう視点で読み直すとまた感慨深いものがあります。

以上で越川芳明訳「焔」は今回で終わります(興味を持たれた方は村上春樹訳と比べてみてください――カーヴァーが言っていたように、言葉のチョイスにそれぞれの違いが窺われて面白いです)。

今回シリーズは尚もつづきます。

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その70

book


「焔――文学と影響について」の続きです。

このように苛酷なまでに育児に追いまくられて、わたしには何らかの長編作品について考える暇も気持ちもなかった。そんなことは、生活環境が、D・H・ロレンスの言葉を借りれば、生活の「束縛と打撃」が許してくれなかった。子どもがいる生活環境が、それとはちがう創作を強いたのである。もしわたしが何か作品を書き、それを完成させたければ、また完成した作品から満足を得たければ、短編小説や詩に専念しなければならない。つまり、腰を落ち着けて書き始め、運がよければ、素早く完成までこぎ着けられるような短い作品である。かなり長時間、落ち着いて何かに集中できない性分なので、長編小説を書くのは、きついにちがいない。そんな風に、ずっと昔から、アイオワ・シティに住むずっと前から、わたしは考えていた。いま振り返って見ると、あのひどく飢えていた時期に、欲求不満で徐々に気が変になっていたように思う。それはともかく、こうした生活環境が、全面的に、わたしの作品が取るべき形式を規定したのである。もちろん、わたしは不満を述べているわけではない。未だに戸惑っている、重苦しい心の底から、事実を述べているにすぎないのだ。
仮に構想をまとめ、長編小説に全精力を注ぐことができたとしても、数年先になるかもしれない報酬を待っていられるような立場に、わたしはいなかった。先が見えなかったのだ。腰を落ち着け、いますぐにも、今晩中にも書き上げられるものを書かなければならなかった。あるいは、少なくとも明日の晩か、仕事から帰ってきて興味が失せないうちに、書かなければならなかった。当時は、いつも何らかの半端仕事をしていた。妻もそうだった。ウェイトレスをしたり、訪問販売をしたり。何年もたってから、妻は高校で教えもした。だが、それはずっと後のことである。わたしはといえば、製材場、ビルの管理、運送配達、ガソリンスタンド、倉庫番――あなたの知っている仕事は、何でもやった。ある夏のこと、カリフォルニア州アーカタで、生計のために、昼はチューリップの摘み取り作業をして、夜は夜で、閉店後のドライブインのレストランの掃除と、そこの駐車場の清掃をしたものである。一度など、ほんの数分間ではあったが――求職申し込み書を前にして――取り立て屋になろうか、と思ったこともあった。
当時は、仕事と家事の後で、かろうじて一、二時間を自分のものにできたら、それだけで有難かった。それだけで天国だった。そういう時間が取れるだけで、幸せな気分になれた。しかし、時には何らかの理由で、そういう時間が取れないこともあった。そんなときは、土曜日を待つことにした。ただ、時には、そんな土曜日も台無しにするようなことが、まま起こったものだが……。しかし、そういうときには、日曜日に希望をつないだ。たぶん、日曜日なら……、とばかりに。
そんな流儀では――というか、流儀などないのだが――長編小説の執筆など思いもよらなかった。小説を書くには、作家は意味ある世界に住んでいなければならない、そうわたしには思えた。それは、いわば作家が信じることができ、それに照準を合わせて、正確に書くことができるような世界なのだ。それはともかく、しばらくのあいだ、一つところに固定しているような世界である。と同時に、作家は、そうした世界に本質的な正当性を認めなければならない。つまり、見知った世界には存在理由があり、書くに値し、しかも書いているうちに、そうした世界が煙のごとく消え去るようなことはない、といった信念がなければならない。わたしがよく知り、生きている世界は、そんなものではなかった。わたしの世界は、日ごとに、規律とともに、歯車も方向も変わるように思える世界だった。翌月の上旬より先のことは、まったく見通しもめどもつかず、家賃を払ったり、子供たちに通学服を買うために、なんとか金を工面しなければならない、そういった立場にわたしは幾度となく追い込まれたものである。これは紛れもない事実だ。
わたしはいわゆる文学修行の、形に表れた成果をみたいと思った。伝票も口約束も、証書も御免だった。そういうわけで、わたしは意図的に、しかも必要に迫られて、一度か、あるいはせいぜい二度で書き上げられそうな作品だけに限定した。いま話しているのは、最初の草稿のことである。わたしはいつも忍耐強く推敲することにしているが、当時は、推敲のときがくるのが待ちどおしくてしかたなかった。わたしが喜んで取っておいた時間が、それによって消費されるからだ。ある意味で、わたしは執筆中の短編や詩を焦って完成させたりはしなかった。というのも、一つの作品を完成させたら、ほかのものを書き始める時間と信念を見い出さなければならなくなるからだ。そういうわけで、草稿ができてから、わたしはその一編の作品に辛抱強く付き合った。かなり長いこと家のなかに放っておき、あれこれ手を入れて、言葉を削ったり補ったりしたのである。
こうした行きたりばったりの創作が二十年近く続いた。もちろん、あの頃にも楽しいことはあった。人の子の親だけが味わえる大人の喜びや充実感。だが、もう一度あの頃のことを経験するくらいなら、毒を飲んで死んだ方がましだと思う。


おそらく――いや、まず間違いなく――これがカーヴァーの本音だとは思うんですが、実際に当時を過した元家族たちのことを思うと、割り切れなさが募ります。

わたしの生活環境は、いまではすっかり変わってしまったが、それでも敢えて短編や詩を書こうとしている。少なくとも、わたしにはそう思える。たぶん、あの頃の創作癖が身に付いてしまったのだろう。たぶん、何か――自分が望むものならば、何でもいいとは!――を執筆する時間が大量にあり、しかも、椅子を持っていかれてしまうのではないかと心配したり、また、どうして夕食ができていないのかと、子どもに文句をいわれるのではないかと心配する必要のない、そういう立場から思考することに、わたしがまだ馴れていないからかもしれない。とはいえ、わたしは道すがらいくつかのことを学んだ。その一つは、「身を任さなければ、身を崩す」ということだった。もっとも、「身を任せたがために、身を崩す」ということも学んだのだが……。

とはいえ、カーヴァーは自身の人生に起こったことのすべてを「ありのまま」に受け入れてはいるようです。そのあたりに一種の救いは感じられますね。

つづきます。

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その69

Literature


「焔――文学と影響について」の続きです。

ヘンリー・ミラーが四十代で、『北回帰線』を執筆していたときに――ついでながら、これは大好きな本だ――貸し部屋で書くことについて語っている。いつ何時いま腰を下ろしている椅子が持っていかれてしまい、そのため執筆を中断せざるを得なくなるか分からなかったらしい。



つい最近まで、わたしも絶えずこうした事態につきまとわれていた。というのも、思い出す限り、十代のときから、いまにも椅子を奪われるかもしれないということが、つねにわたしの悩みだったからだ。何年ものあいだ、わたしたち夫婦は、雨露をしのぐ屋根とその日のパンやミルクを確保しようとして、すれちがいの生活を強いられた。金はない。目につく、つまり、金になる技術もない――ぎりぎりに暮らせるだけの食いぶちを稼ぐのがやっとで。それに、学歴も。もっとも、二人ともひどく切望していたのだが……。学歴、これさえあれば未来が開け、職が手に入り、わたしたち夫婦にとっても、子供たちにとっても望ましい生活ができるだろうと思っていたのだ。わたしたち夫婦には、大きな夢があった。謙虚に、一所懸命働くことはもちろんのこと、その気になれば、何でもできると思っていたのである。だが、それは思いちがいだった。
いまこそ告げなければならないだろうが、わたしの人生と文学が直接的にも間接的にも受けた影響で、唯一最大のものは、わたしの二人の子どものそれだったのである。二人は、わたしが二十歳になる前に生まれ、そのときから同じ屋根の下で暮らしてきたが――合わせて、ほぼ一九年間――わたしの人生において、ずしりと重く、しばしば破壊的なかれらの影響力の及ばない局面はなかった。
あるエッセイのなかで、フラナリー・オコナーは、作家は二十歳を過ぎたら、あまり多くのことを経験する必要はないと述べている。小説を作り出す材料の多くは、それまでに作家の身に起こってしまっている。それも十分すぎるくらいに、と彼女はいう。それ以降作家が創作を続けるのに十分すぎる材料を手に入れている、というのだ。このことは、しかし、わたしには当てはまらない。わたしにとって物語の「題材」にふさわしいと思えるものの大半が、二十歳以降に経験したことなのだ。わたしの人生において、子どもを持つ前のことは、あまり思い出せない。二十歳になり、結婚して、二人の子の親になるまで、わたしの人生にはなにも起こらなかったように思える。むしろ、そのときから、いろいろなことが起こり始めたのだ。

一九六〇年代の半ばに、わたしはアイオワ・シティの混み合ったコインランドリーにいた。五つも六つもある衣類の山――ほとんどが子どもたちのものだが、わたしたち夫婦の衣類もいくらかあった――を洗濯しようとしていた。妻は、その土曜日の午後、大学のアスレチック・クラブでウェイトレスの仕事をしていた。わたしは家事をしたり、子どもの世話をしていた。子どもたちは、その日の午後、たぶん誕生パーティか何かで、どこか友達のところにいっていたのだろう。ちょうどそのとき、わたしは洗濯をしていた。わたしはすでに意地の悪そうな老婆と、わたしが使わねばならない洗濯機の数をめぐって、くち汚く口論したばかりだった。わたしはいま彼女と、あるいは彼女に似たほかの人とともに、次の番を待っている。いらいらしながら、満員のコイン・ランドリーで、稼働している乾燥機から眼を離さずに。乾燥機の一つが止まったら、湿った衣類の入った買物籠を持ったまま、そこまでダッシュしよう。わたしはこのランドリーで、籠いっぱいの衣類を持って、チャンスを待ちながら三十分かそこら、ただぶらぶらしていたというわけなのだ。すでに乾燥機二つを見逃してしまっていた――ほかの誰かに取られてしまったのである。わたしはやっきになっていた。承知のように、子どもたちがどこにいるのか、わたしにははっきり分からない。どこかに迎えに行かなければならないかもしれない。もう遅くなりかけている。こうしたことが、わたしの精神状況にいいはずがない。わたしには分かっていたが、たとえ衣類を乾燥機のなかに入れることができたにしても、乾くまでに――それを籠に詰め込んで、学生夫婦用のアパートに帰るまでに――もう一時間以上はかかるだろう。ついに乾燥機の一つが止まった。止まったとき、わたしはその真ん前にいた。なかの衣類は回るのを止め、動かない。三十秒かそこらで、もし誰も取りに現われなければ、その洗濯物を取り出し、自分のを代わりに入れるつもりでいた。それが、コイン・ランドリーのしきたりなのだ。しかし、そのときひとりの女がやってきて、乾燥機の扉を開けた。わたしは立ったまま、待っていた。この女は片手を乾燥機のなかに突っ込み、いくつかの洗濯物に触ってみる。まだ十分乾いていない、そう女は判断したらしい。扉を閉め、十セント硬貨をもう二杯投入したのだった。呆然としたまま、わたしは買物車とともにその場を離れ、ふたたび待つはめになった。しかし、いまでも覚えているが、そのように涙も出んばかりの、どうしようもない欲求不満を感じている最中に、わたしは思ったのである。自分に二人の子がいるという事実に比べれば、この世でわたしの身に降りかかることなど、何一つ――ほんとうに何一つ――深刻でも、重要でも、大切でもない、と。つねに子どもたちから逃れられないし、つねに免れることのない責任と果てしない苦労につきまとわれるのだ、と。
いま語ろうとしているのは、ほんとうの「影響力」について、いわば月と潮の満干の関係についてである。影響とは、わたしにとってそのような関係のことであり、窓が開け放たれているときに、吹き込む一陣の突風のようなものなのだ。あの時点まで、わたしは、かなり漠然とながら、すべてが何とかなるものだと――自分が希望することも、したいと思うことも、すべてが叶うものだと――思っていた。だが、あのとき、コイン・ランドリーで、それがまったくの見当ちがいだと悟ったのだ。わたしは悟った――わたしはそれまで何を思っていたのだろう?――自分の人生なんて、およそけちなものにすぎず、破茶目茶で、あまり光も差し込まないということを。あのとき、わたしは思った――というか、知ったのだ――自分の人生は、心から尊敬する作家たちのそれとは随分ちがうということを。作家とは、わたしの理解するところでは、コイン・ランドリーでみずからの土曜日を費やしたり、また目覚めている時間を自分の子どもたちの欲求や気まぐれのために使うような人種ではない。むろん、わたしよりずっと深刻な創作の障害――牢獄、盲目、何らかの拷問や死の脅威――に遭遇した作家は腐るほどいるだろう。しかし、そんなことを知ったところで、何の慰めになろうか。そのとき――誓っていうが、すべてはあのコイン・ランドリーで起こったのだ――この先何年も、我が子に対する責任と苦労から逃れられないだろうということしか、わたしには考えられなかった。事態は多少変わるかもしれないが、けっしてよくなることはないだろう。それは理屈では分っても、果してやっていけるだろうか。そのとき、わたしはどこかで妥協しなければならない。視線を下げなければならない、と思った。


まるで神宮球場の外野スタンドにおける村上春樹さんの「啓示」のようです。

後でわかるのだが、わたしには洞察力があった。だが、それが何だろう。洞察力とは何なのだ。何の役にも立たぬではないか。むしろ、事態をいっそう難しくするだけではないか。
わたしたち夫婦は、勤勉に働き、きちんと生きていさえすれば、いいことがあるものだと、長いこと信じて疑わなかった。それは、人生の拠りどころにするのにちょうどよい信念だった。勤勉、目標、善意、忠誠心、こういったものをわたしたちは美徳と信じて、いつかはその報いがあるだろうと思っていた。暇さえあれば、夢ばかり見ていたのである。しかし、やがてわたしたちは、勤勉や夢だけではだめだと悟ることになる。たぶん、アイオワ・シティに住んでいた頃か、あるいはそのすぐ後の、サクラメントで、わたしたちの夢が崩れ始めたのだった。
ついにその時がやってきた。わたしたち夫婦が神聖視していたもの、尊敬に値すると思っていたもの、いわば精神的な価値を持つもののすべてが崩れさったのである。恐ろしいことが起こった。ほかの家庭では見たこともないようなこと。何が起こったのか、わたしたちには十分把握できなかった。それは、いわば浸食作用であり、食い止めることができなかった。どういうわけか、わたしたち夫婦が見ていないあいだに、子供たちが馭者台に乗っていたのだ。ばかばかしく思えるかもしれないが、子供たちが手綱と鞭を握っていた。わたしたち夫婦には、この先どうなるかといったことなど、まったく見当がつかなかったのである。


つづきます。

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その68

Literature


今度は同じ雑誌(『ユリイカ』――『変貌するアメリカ文学』一九八七年十月号)の中にある「焔――文学と影響について」を紹介しましょう。訳は越川芳明さんです。

影響とは威力である。環境によるものにしろ、個性によるものにしろ、潮の満ち干のように避けがたいものだ。わたしに影響を与えたかもしれない書物や作家について、語ることは無理だろう。そのような影響力、つまり文学的な影響力を、多少とも確信を持って規定することは難しい。これまでに読んだすべての作品から影響を受けたと、わたしがいえば、どの作家からも影響を受けなかったというのと同じように、不正確になってしまう。たとえば、わたしは長いことアーネスト・ヘミングウェイの小説と短編の愛読者だが、ロレンス・ダレルの作品もまた言語の扱いがすぐれているし、何よりも傑作であるように思える。もちろん、わたしはダレルのような文章は書かないので、ダレルがわたしにとっての「影響力」でないことは歴然としている。また、わたしの作品はヘミングウェイの作品に「似ている」といわれることがあるが、しかし、ヘミングウェイの作品がわたしのそれに影響を与えたとはいえない。ヘミングウェイはダレルと同じように、わたしが二十代のときに初めて読み、感銘を受けた数多くの作家の一人にすぎないからだ。
このように、文学的な影響力についてはよく分からないのだが、ほかの種類の影響力ならば、わたしにも多少思うところがないわけではない。わたしが多少とも知っている影響力とは、往々にして一目見たとき神秘的でありながら、奇跡的なものにならずに、その一歩手前で終わってしまうことがあるのだ。しかし、こうした影響力は、わたしの仕事が進行するにつれて明らかになってきた。こうした影響力は冷酷無比だった(いまでもそうである)。そのために、わたしはこちらへ、ほかの――たとえば、この湖の向こう岸のあのーー岬ではなくて、この岬へ来ざるを得なくなるような、そんな影響力だった。しかし、わたしの人生と文学が受けた主な影響が、わたしが思うようにネガティヴなもので、抑圧的で、しばしば悪意に満ちたものだとしたら、それをどうすべきなのだろうか。
まずこのエッセイを書いているのは、ニューヨーク州サラトガ・スプリングスの近郊、ヤドゥといしうところだといっておこう。八月上旬の、日曜日の午後。実に頻繁に、二五分かそこらおきに、三万人の声が大喚声となって聞こえてくる。この物凄い大喚声は、サラトガ競馬場からやってくるのだ。いま有名な競技会が行われている。わたしがペンを走らせていると、二五分おきに出走馬の名前を告げるアナウンサーの声が鳴り響く。観客のどよめきが次第に増す。木々を越えてくる。胸が昂ぶる大喚声。馬がゴールに入るまで轟きわたる。レースが終わると、わたしはまるでその場にいたかのようにぐったりと疲れてしまう。配当金が貰える勝ち馬の、あるいは接戦でゴールに入った馬の馬券を握り締めている自分の姿を思い浮かべたりもする。写真半判定にもつれ込んだときなど、一、二分後に、写真が現像され公式順位が発表されると、ふたたび大喚声が沸き上がるのだ。
ここに来て数日、拡声器から鳴り響くアナウンサーの声と、観客の熱烈な声援を聞きながら、わたしはかなり前にしばらく住んでいたことがある町エル・パソを舞台にした短編を執筆している。題材はエル・パソ近郊の競馬場に出かける人びとだ。この物語は煮詰まっていたわけではない。けっしてそうではない。仮にそういったりすると、何か別のことをいっているような感じがしてしまうかもしれないが、この短編に限っては、作品として形をなすために何かが必要だった。ここヤドゥにやってきて、観客の大喚声と拡声器から流れるアナウンサーの声を聞いて、あのエル・パソでの生活のいくつかの記憶が蘇り、この短編のヒントになったのである。自分が出かけていったあの競馬場のことや、ここかに二千マイルも離れた所で起こったこと、起こったかもしれないこと、また――わたしの短編のなかで――「これから起こる」ことを思い出したのだ。

「わたしの短編のなかで『これから起こること』を思い出した」ってのがいいですね。

そういうわけで、短編の進行中にも、この手の「影響」を被っている。むろん、どんな作家でもこの種の影響は被るだろう。これは最もよく見られる影響である。AがBのヒントになり、さらにBがCのヒントになるといった具合に。これは雨水のように、どの作家にも共通した、ごく自然な影響である。
ところで、本論に入る前に、いま述べた影響に類似した例をもう一つ挙げておこう。さほど昔のことではないが、シラキュースの拙宅で短編の執筆中に、電話のベルが鳴ったのだった。わたしは電話に出た。先方は明らかに黒人と分かる声で、ネルソンという名の知合いを出してくれという。まちがい電話なので、そう断わって、わたしは電話を切った。そして、ふたたび短編にもどった。しかし、わたしはすぐさま一人の黒人をその作品のなかに登場させていた。ネルソンという名のいくぶん陰険な人物を。そのときから、物語はそれまでとはちがう展開を見せた。いまから見ると幸いなことに、なぜかそのときにそうなることは分かっていたのだが、実に物語にふさわしい展開だった。書き始めたときは、ネルソンを登場させるつもりなどなかったし、そうした必要性もあらかじめ念頭にはなかった。だが、いま作品ができあがり、まもなく全国紙に掲載されるといった段になってみると、ネルソンが登場し、しかも陰険な性格を帯びて登場したことは、物語にふさわしく、好都合な展開だと思えるし、おそらく美学的にも正しいといえるだろう。同時に、わたし自身にとっても好都合だったのは、この登場人物が、偶然に、しかも十分信頼できるほど適切に、わたしの物語に忍び込んできてくれたことだった。


「偶然」といえば何といってもポール・オースターですが、だからといって、「ご都合主義」に堕してしまっては鼻白むばかりです。というのも、7月クールで始まったTBSのドラマ『ごめん、愛してる』のあまりの酷さにちょいと腹を立てているもので(笑)、ここのところは力説しときます(せっかくのキャストなのに勿体ないです)。

わたしは物覚えが悪い。自分の身に起こる多くのことを忘れてしまう――これは、きっと喜ばしいことだろう――自分の住んでいた町にしろ都市にしろ、人の名前にしろ、その人本人のことにしろ、まったく説明することも、思い出すこともできない長い期間がわたしにはある。長い空白期間。しかし、そういうわたしにも、多少は思い出せることがある。ささいなこと。誰かが何かを独特な喋り方でいったとか、誰かのけたたましい、あるいは低音の、引きつった笑い声とか、風景とか、誰かの顔に浮かんだ悲しみの、あるいは困惑の表情とか。また、ドラマチックなこともいくつか覚えている。誰かがナイフを手に持ち、怒り狂ってわたしに襲いかかってきたこととか、誰かを脅している自分自身の声を聞いたこととか。誰かがドアを壊すところや、階段からころげ落ちるところを見たこととか。そうした比較的ドラマチックな出来事は、すべてとはいえないまでも、必要とあれば、思い出すことができる。だが、交わした会話をそっくりそのまま、そのときの動作やニュアンスを失わずに復元できるほどの記憶力を、わたしは持ち合わせていない。

三島由紀夫さんは、自分が生まれた瞬間の記憶を持っていると語っていたそうですが、フツーはカーヴァーが言うように、人間はそれほどの記憶力を持ち合わせていないようです(ただし、無意識にはきちんと記録されてはいるようですが……)。

いままで過ごしたことがある部屋の調度品も、あまり記憶にない。まして家中の調度品など思い出せるはずもない。競馬場についても、まあ、表面スタンドとか馬券売り場、場内専用テレビ、人混み、喚声などは思い出せるが、競馬場に特有の多くのものは忘れてしまっている。だから、わたし自身が物語のなかで会話を拵えるのである。そして、登場人物を取り囲む調度品や身のまわりの道具を、必要とあらば、物語のなかに投げ込む。時として、わたしの作品は飾り気がないとか、贅肉がないとか、「ミニマリズム」だとかいわれることがあるが、それはこうしたことに起因しているのかもしれない。しかしながら、いまわたし流の書き方で、わたし流の作品を書くようになったのは、必要性と便宜性が執筆中に結びついたからにほかならないかもしれない。
もちろん、わたしの短編は、どれも実際に「起こった」ことではない。わたしが書いているのは、自伝ではない。ただ、作品のほとんどが、ほんの微かながら、実人生の出来事や状況に類似している。しかし、物語の状況に関する身のまわりの道具なり、調度品を思い出そうとすると(仮にあったとしても、どんな花があったか。匂いはしたか、等々)、わたしは途方に暮れてしまう。そういうわけで、わたしは創作の過程で、拵えるのである。物語の人物たちが互いに交わす言葉はもちろんのこと、あれこれいった後で、かれらがどんなことをしたか、それからどんなことがあったか、そういったことを拵えるのだ。こうして、わたしは登場人物たちが互いに交わす言葉を拵えるのだが、そのなかには、かつてどこかで実際に耳にしたことがある台詞が、語句にしろ、文にしろ、混じっているかもしれない。そうした一文が物語の出発点になったことさえあるかもしれない。


納得です。自分にも思い当たるところが多々あります(「忘れ去ったこと」も含めて「=記憶」なんだと体験的に思っています)。

つづきます。

レイモンド・カーヴァーに学ぶ  その67

book


「家のなかの物語」の続きです。

――ところで、執筆の習慣はどんなですか。いつも短編に取り組んでいるのですか。

カーヴァー 何かを執筆してるときは、毎日ね。そんなときは、とても素晴らしい。毎日が次の日に難なくつながって、たまに何曜日なのか分からなくなっちゃってね。まさにジョン・アッシュべりのいう「(汽船の)水搔き車の毎日」さ。執筆してないときは、ちょうど今みたいに、教鞭に縛られているときは、まるで一語も書いたことがないみたい、というか書く気がないみたいに、悪い癖に陥っちゃって、夜遅くまで起きていて、だらだら寝てばかり。でも、それはそれで構わない。じっと我慢して、好機を待つことを学んだから。ずっと昔に、学ばされたから、我慢することをさ。もし記号を信じるとしたら、ぼくの記号は、たぶん亀の記号だろう。時どき思いだしたように書くから。でも、執筆中は、何時間も机から離れない。毎日一〇時間から一五時間ぶっ続けにね。そんなときがくると、楽しくて仕方がない。こうした時間の多くは、校正や推敲に費やすんだけど。できあがった作品しばらく手元において、それに手を加えることほど、楽しいことはない。詩の場合も同じだね。ぼくは何かを書き終えてから、慌ててそれを送るようなことはしないで、何ヵ月も手元において、あれこれ手を加えたり、削除や追加を繰り返すんだ。でも、最初の草稿は、あまりかからない。たいてい一度椅子に座っただけでね。でも、校正にかなりの時間を取って、二〇校から三〇校もやったことがある。少なくとも、一〇校から一二校は下らないと思う。偉大な作家たちの草稿を見るのは、ためにもなるし、励みにもなるよ。校正が好きだった作家の名前を一人だけ挙げるとして、トルストイのゲラ刷りの写真のことが、いまぼくの頭にあるんだけど。まあ、かれが好きだったかどうかは分からないけど、うんざりするほどやっている。ページ合わせのときまで、絶えず校正していたらしい。『戦争と平和』を完成させてから、八度も書き直して、その上ゲラ刷りにまで手を加えていたというからね。こうしたことはぼくをはじめとして、最初の草稿が拙い、すべての作家の励みになると思うよ、きっと。

人間が出来ていないからなのでしょうか? こういう話を聞いても励みになるどころか、思いっきり引いてしまう自分が情けないです。でも、間違いなく推敲の鬼になることが大事なようですね。自戒しましょう。

――あなたが短編を書くときのことを詳しく聞かせてください。

カーヴァー いまいったように、最初の草稿は素早く書く。たいてい手書きでね。ただできるだけ早くページを埋める。時には、ぼくだけが分かる速記とか、後で戻ってきたとき何を書くかを記したメモを残す。場面によっては、未完のまま、書かずに放っておくこともあるし。後で細心の注意を払わなきゃならない場面は、特にね。もちろん、すべてに細心の注意を払わなきゃならないんだけど、場面によっては、二校か三校まで取っておくものもあるんだ。最初の草稿であれこれ書いて、しかもちゃんと書くには、時間がかかりすぎるからね。最初の草稿で大切なのは、輪郭を、いわば物語の足場組みを書き込むことで、それから、続いて何度も校正しながら、残りの部分に取りかかる。手書きの原稿ができあがると、それをタイプして、先に進む。タイプすると、いつもちがって見える、もちろん前よりよく見える。最初の草稿をタイプしながら、推敲を始めるんだ、すこし言葉を補ったり削ったりして。きちんとした作品になるのは、後になってから、三校、四校を済ませてから。詩の場合も、これと同じだけど、ただ詩は、四〇校か五〇校ぐらいやる。ドナルド・ホールに聞いた話だけど、かれは自分の詩を一〇〇回ぐらい校正するらしい。すごい話でしょう。

――文学的な影響について、ちょっと話してくれませんか。よく愛読している作家の名前だけでもいいですから。

カーヴァー まずアーネスト・ヘミングウェイ。初期の短編「二つの心がある大きな川」とか「雨の中の猫」とか「三日間の嵐」とか「兵士の故郷」、そのほかにも一杯あるけど。チェーホフも。思うに、ぼくが最も愛読してるのはチェーホフじゃないかな。もっとも、チェーホフが嫌いな人なんているわけないけど。いま話してるのは、かれの短編のことであって、劇じゃない。かれの劇は、展開がのろすぎる。それからトルストイかな。かれの短編、中編はどれもいい。それと『アンナ・カレーニナ』。『戦争と平和』は、御免こうむりたいよ。のろすぎてね。でも、『イワン・イリイッチの死』とか『主人と下男』とか「人間には、どれだけたくさんの土地が要るか」のトルストイは、最高だ。






イサーク・バーベリ、フラナリー・オコナー、フランク・オコナーなどもいい。ジェイムズ・ジョイスの『ダブリンの人々』。ジョン・チーヴァー。『ボヴァリー夫人』。昨年、この小説を読み返してね。フローベールが『ボヴァリー夫人』を制作してたとき――そうとしかいいようがないけど――そのときに書いた書簡集の翻訳が今度新しく出たから、それも一緒に読んだ。コンラッドもいい。アップダイクの『あまりに遠すぎて』も。また、トビアス・ウルフみたいに、ここ一、二年のうちに出会った素晴らしい作家たちもいるし。ウルフの『北アメリカの殉教者たちの園』は、まったく素晴らしい短編集だ。



マックス・ショット。ジョイ・ウィリアムズ。ボビー・アン・メイソンもいい。彼女の名前は挙げたっけ? ま、二度挙げたって悪くない。ハロルド・ピンター。V・S・ブリチェット。何年も前に、チェーホフの手紙を読んで、凄く感激した部分があってね、それは、数多くの文通相手の一人に与えたアドバイスだったんだけど、こんな感じだったんだ。友よ、途轍もない、記憶に残るような偉業を成し遂げる偉人などを書く必要はないんだ、ってね。(いいかい、ぼくはそのころ大学生で、王子だとか公爵だとか王国の転覆だとかの劇を読まされていたんだよ。探究とか何とかいって、壮大な冒険によって、ヒーローがそれにふさわしい立場におさまる、いわば、実物以上のヒーローが登場する小説の類をね。)だけど、あの手紙によって、ほかの手紙でもそうたけど、チェーホフがいいたかったことを読んで、またかれの短編も読んで、それ以前とは物の見方が、すっかり変わってしまったというわけなんだ。その後しばらくして、マクシム・ゴーリキーの劇や多くの短編を読んだんだけど、かれは、まさにチェーホフの意見を作品で裏打ちしていた。リチャード・フォードもいい作家だね、主に小説だけど、短編やエッセイも書くし、ぼくの友達さ。

――フィクションの創作と詩の創作で、どんな影響関係がありますか。

カーヴァー もう何もないね。長いこと詩の創作とフィクションの創作の両方に興味を持ってたんだけど。雑誌を手に取ると、必ずっていっていいくらい短編を読む前に、詩の欄をめくってたものさ。で、ついに、どちらか選択を迫られて、フィクションの側に就いたんだ。たぶん、その選択は正しかった。ぼくは、いわゆる「生まれつきの』詩人じゃないから。それをいうなら、ぼくは、アメリカの白人男である以外に、「生まれつきの」何者でもないだろうけどね。これからは、折々の詩人でいこうと思う。そうすることにするよ。詩をなんにも書かないより、その方がましだから。

――だれが一番先にあなたの作品を読むのですか。

カーヴァー 妻さ。ご存知のように、彼女は詩人でも、短編作家でもあるんだ。ぼくは手紙を除いて、みな彼女に見せるんだ。たまに手紙を見せる場合だってある。彼女には眼識があって、しかも、ぼくの書いたもののなかにうまく入り込める。だから、あれこれ推敲して納得するまでは、彼女には見せない。たいてい、それは四校か五校になるけど、それから先の原稿は、残らず目を通してくれる。これまでに、ぼくは三冊の本を彼女に献呈しているけれど、単なる愛情とか好意の証なんかじゃない。それは、彼女に対する大いなる尊敬と、彼女から助言とインスピレーションを貰ったことに対して感謝の意を表したものなんだ。

知人もそうみたいなんだけど、なんか羨ましい話ですね。でも自分の場合、逆に無関心でいてもらえるからこそ、何の気兼ねもなく自由にやれているのかもしれません。

――執筆には西海岸の方がいいんでは? それとも、ここ東部の方がいいですか。あなたの作品にとって、場所の感覚がどれくらい重要であるか教えてほしいんですが……。

カーヴァー 自分をある地域出身の作家と見なすことは、昔は大切だった。ぼくにとって、西部出身の作家であることが重要であったときもあった。でも、いまじゃもう、よかれあしかれ、そうじゃない。たぶん、あまりにあちこち動きまわって、あまりにいろんなところに移り住んで、感覚がずれちゃって、追放された感じになっちゃって、いまじゃしっかり根を下ろした「場所」の感覚は、全然なくなってしまって、ぼくが意識して特定の場所や時代に物語を設定するならば、実際そうしたこともあったけど、特に最初の本でね、たぶんその場所とは、北西部太平洋岸だろうね。場所の感覚で、ぼくが上手だと感じる作家としては、ジム・ウェルチ、ウォーレス・ステグナージョン・キーブル、ウィリアム・イーストレイク、ウィリアム・キットレッジなどがいる。こうした場所の感覚を持った優秀な作家は、ほかにもたくさんいるけど、ぼくの短編の大半は、特定の場所を舞台にしてるわけじゃない。というか、どの都市、どの郊外で起こってもおかしくないってことさ。ここシラキュースでもいいし、ツーソン、サクラメント、サン・ノゼ、サンフランシスコ、ワシントン州シアトル、あるいはポート・エンジェルスでもいい。ともかく、ぼくの短編の舞台は、ほとんど室内だよ!

場所の感覚については何とも言えません。ただ、自然条件やら季節には個人的な思い入れはあります。それは、フラナリー・オコナーが言うように「子供時代にすべての物語の種子が潜んでい」るんじゃないかということで、自分の場合は雪がそれに相当します。

以上でこのインタヴューは終わりです。

つづきます。

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コウです。プロフィールの画像が詐欺ではないかとの噂がありますが(笑)、ン十年前はこんなでしたってば! と言い張っちゃう^^
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